天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

ずば抜けた才能京極夏彦

2016-12-27 06:58:14 | 


今年読んだ作家のなかで京極夏彦の存在は大きかった。彼の著作は20冊は読んだだろうか。私淑したといっていい。
書きとめたりコピーしたりした箇所の多さも京極さんが筆頭である。
その中から特に印象に残った二つについて述べる。
一つは『数えずの井戸』のアフォリズムの切れ味、もう一つ『狂骨の夢』の随筆の深みである。
『数えずの井戸』より
才覚を上回るものを求められても為すことは出来まいし、己の能力(ちから)を越えた要求に応える気など播磨には最初(はな)からない。
そんな構えでいる以上、失敗(しくじ)ると思うことはあまりない。叱られたら謝れば良い。詰られたら堪えれば良い。罵りは遣り過ごせば良い。遣り直しが利くなら遣り直せば良いし、利かぬのなら諦めれば良い。それ以上に如何(どう)しようもないと播磨は思う。


これはアフォリズムである。
作者は読者に身の処し方、生き方を説いている。小説を人が読みたがるのはこれが物語であるからだ。親に身辺のあれこれを意見されるようなこと、説教をふつう人は小説においてまで読もうとは思わない。
作家も主張したい内容は膨大にあってもそれをストレートに出さなくていい小説という形式を採っているのである。
アフォリズムは物語の中にあって作者がナマの声を上げる場面である。ナマゆえこれが多用されると読むほうはうるさいと感じることが多い。アフォリズムの多用がうるさくて離れた作家に花村萬月がいる。
京極さんもアフォリズムの使用は少なくない。けれど京極さんのそれは身にしみるようにできている、どの場面でも。
基本的にうるさい要素を多用しながらそれを味わいに転化させるのは技量である。
取り上げたアフォリズムは登場人物の播磨の考えというふうにワンクッションをおいて作者が背後に身を隠すという配慮を怠らない。また文章の格調の高さがアフォリズムを成功させている。
世に人生読本は多いがこのアフォリズムだけでそういった本一冊分の内容を蔵しているのではないか。

『狂骨の夢』より

海鳴りが嫌いだ。
遥か彼方、気も遠くなる程の遠くから、次々と押し寄せる閑寂として脅迫的な轟音。
…………………………………………
そもそも海が嫌いだ。
海のない在所で育った私は、初めてそれを見た時に、どこからどこまでが海なのか、そのことばかり考えてしまった。
海の主体は水なのだろうか。それともその下の海底なのだろうか。まずそこがはっきりしない。水に浸っている地面は最早海なのだろうか。ならばあの忌ま忌ましい波というのはなんだ。
波もまた、考えるのも厭になる程彼方から畝畝と押し寄せては去って行く。
……………………………………………


『狂骨の夢』の冒頭の入りの部分である。
「私」は作者自身ではないのだが作者自身と錯覚する随筆ふうな筆致。海というものについての見解を4ページもえんえんと書き続ける気概がすばらしい。
たとえばぼくらが文章教室かなにかで二時間ほど海辺へ放り出されて海について何か書けといわれたとき何が書けるだろうか。
俳句でもいい。鷗も鴨などの鳥も魚も見えない水と砂の海辺を散策して10句作れといわれたとき何が書けるのか。
見ることには角度が要る。
京極さんは写生の切り口の多様性を見せる。見るには角度が要り、見極めるには抉ることが必要であることをたんたんとやって見せる。
見ることで深層を洞察する、それが見ることの真の意義であることを見せつける。
この海の描写は何度も読んだ。
読むたびに海に引き入れられて行く心地になった。俳句に通じる要素が多々ある文章である。
この小説じたいの出来は『姑獲鳥の夏』よりは落ちるとは思うがこの冒頭は異色であり、ここだけも読む価値がある。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「エリーゼのために」を弾く... | トップ | 古暦蝋梅がもう咲いてゐる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事