天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

通草ぱつくり友達なんて嘘つぱち

2015-09-28 11:35:19 | 身辺雑記


本日の讀賣新聞の人生案内に投稿した埼玉K子さんの悩みに注目した。
「友人のSNS投稿に嫉妬」と題したK子さんの悩みは、友人たちの投稿しているおしゃれなレストランやブランド品やかわいい容貌の写真などみんなキラキラしていて、「自分はなんて地味なんだ」と落ち込んでしまう、といった内容である。

これに対して回答者、鷲田清一氏(哲学者)が「SNSとおさらばしてはどうですか」と提案している。なお鷲田がSNSを「たがいを映し合うような関係」と分析したのはみごとに本質を突いていると思った。
そんなものから一度離れて自分をみつめましょうね、ということである。

ぼくもSNSはmixiとFACEBOOKに加入はしているが、そこに集う方々とほとんど交流していない。
mixiには読者がいそうなのでブログをつないでいる。
ぼくはSNSの「いいね」にクリックとかいう表面的な交際がうざったい。FACEBOOKなんてほぼ個人写真の展覧会のようなもの。身辺雑記の写真版のようなものにてそうおもしろくない。
「ああ頑張ってますね」などと声をかけ合うのがそうおもしろいことなのか。
それより自分でこつこつ井戸を掘るようにブログを綴っているほうが性に合っている。
誰かが読んでくれているだろうなというそこはかとない気持ちが持てれば孤独でいいのである。

小学生唱歌に「一年生になったら」というとんでもない歌がある。まどみちおの書いたその歌詞は、
いちねんせいになったら
いちねんせいになったら
ともだちひゃくにんできるかな
ひゃくにんでたべたいな
ふじさんのうえでおにぎりを
ぱっくんぱっくんぱっくんと

全体の内容はいいのだが友達100人という具体的な数字に問題を感じる。
学校へ入ったらとにかく友達をたくさんつくろうということを教師も父母も当の子供たちも金科玉条のように思っている。
しかし冷静に考えてみてあり得ることだろうか。
トモダチは響きのいい言葉だが、ではその内実はなんなのか。
そんなにたやすく人は人と通じ合えるのだろうか。
友達なんていらない、煩わしい、ほっておいて、という内向性の人間をないがしろにしていないだろうか。
友人のSNS投稿に嫉妬して新聞に相談をもちかけたK子さんは友達なんてそんなに要らないタイプの人かもしれない。

今日わが家の通草が7個ぱっくりと開いた。
落ちると汚れて妻が嫌がるのでぜんぶ取って食べた。仕事帰りでほんのりとした甘味がいい。すると妻が「初なりをひとりで食べちゃったの!」と声を荒げるではないか。
妻は毎年通草を仰いでは、九州でいう「ぼぼ」を思うらしく「いやらしいから始末して」とぼくを駆り立てていた。
だから食ったのだが文句をいう。
妻でさえこんなものである。
よって友達なんてそう簡単にできるものじゃない。
K子さん、安心してSNSなんて辞めればいいよ。


コメント
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