「シルバーはシルバーウィーク無関心」は、9月22日付「よみうり時事川柳」で片山一弘選に入った三好康雄さんの句である。
19日(土)から本日まで人によっては5日続く連休を世の人が「シルバーウィーク」と呼ぶことを連休になってようやく知った。そのうち「ブロンズウィーク」も出来しそうなご時世である。
この句はまさに小生のような隠居者の心境をよく伝えている。
現役を退くと曜日の意識がなくなるので週4回のパート労働(清掃)にでかけている。ゴミ出しは曜日によってビニール袋の色が違うし、ビニール袋だけでなく段ボールや新聞に触れることがあって曜日が確認できている。
物に触れて認識するというのは俳句に直結する。
先日、ひこばえ句会で、
朝刊に日付たしかむ竹の春
という句が出た。
誰も採らなかったが、ぼくは「朝刊に日付たしかむ」に家にずっといてほとんど外出しない老人のありようが端的に出ていると感じていただいた。
ただし季語は竹でいくのなら「竹の秋」として春の無常観へもっていくほうがいいと直感した。季語のはまりかたは対極のものをつけてみて検証せよ、というのが持論である。
「秋の暮」でまあまあと思っても「春の暮」としてみる。それでも成立するようだとはじめからたいした句材でないか書く精度に問題があるかである。
この句の作者も季語に疑問を感じていたので秋で落ち着く季語に関し若干のヒントを出したりした。
本日の大仕事は夜10時ころからやる日本―スコットランド戦(ラグビー)を見ることくらい。起きていられるかが大問題である。
あとは添削用のボールペンの替え芯を1ダース買いに2キロ先の街へ行くくらい。店が休んでいないかすこし心配。
むかし秋祭のさい祖父の妹が峠を越えて実家に必ずやって来た。徒歩で距離にして10キロほどをくの字に曲がった腰でやっこらさとやって来た。
頭の弱いおばさんで祖父の配慮でかろうじて隣の山村へ嫁がせたようだ。
そういう事情は小学生だった小生にもわかり、おばさんが実家へ大手を振って来られる秋祭はまわりの人もうれしかったものである。
山を越えて隣の村へ行くくらいが昔のおばさんの行動範囲であったが、だんだん小生の生活圏も似てきたように思う。
今も昔もつきつめると人の生活はそう大差ない。
秋の木漏日は頭の弱かったおばさんを思い出させる。むろんシルバーウィークなどなかったのだが。