今日は久しぶりに小説をたくさん読みました。たくさんたくさん。疲れた・・・
先日のちい散歩の舞台は聖蹟桜ヶ丘でした。と言っても2008年12月の再放送でしたけどね。駅から多摩川方面へ向かい、それからいろは坂まで歩いていました。けっこうな道のりだったはずです。
聖蹟桜ヶ丘と言えば、何といっても『耳をすませば』です。来る11月6日に、本名陽子さんを招いてのコンサートがそこで催されます。既に応募は締め切られていますが、当日会場に空きがあれば入場できるはずです。去年まではそうでした。
ぼくは毎年応募しているのですが、今年は生憎学会と重なってしまって、どうしても参加できません。11月の最初の土日と言うのは他にも別の学会などがあるみたいで、ちょうどいい時候なんですかねえ。
最近はらきすたなどがアニメで町おこしの代名詞的な存在になりつつありますが、耳をすませばもまた町おこしに貢献しているようです。聖蹟桜ヶ丘に集う耳すまファンは、必ずしも近隣住民にとってありがたい存在ではなかったはずですが、いまこうしてコンサートが毎年開かれるようになり、それに地域の方々が大勢出席されている、ということは、次第に町の文化にこのアニメーション映画が根付いてきたのを物語っているのでしょうか?「外の人間」として、そうなっていることをぼくは素朴に望みます。そして、ぼくのような外の人間を受け入れてくれればいいなと願っています。
さて、ちい散歩ではいろは坂を上ったところの金毘羅宮が終点でしたが、耳すま散歩では当然まだまだ先があります。とりあえずは「地球屋のロータリー」くらいまでは行ってほしかったな。
かつて昔、かつて昔、
ぼくは隣駅の百草園から、いろは坂を越え、ロータリーを抜け、遠くの団地まで歩き通したことがありました。かなりの道のりだったはずです。あれは秋の深まる紅葉の頃でした。あれからぼくは、更に歩き続けていたんだろうか。ときに立ち止まり、回り道をし、あえぎながら、それでもぼくは歩き続けていたんだろうか。後悔は山ほどあります。この聖蹟にまつわる後悔もあります。それでも、ぼくは聖蹟桜ヶ丘から、遠いところに来てしまったんだろうか。それとも、この場所の周りをただぐるぐる回っていたのだろうか。君は、どうなんだい?
呼びかけは空しくキーボードで文字に変換されるだけ。呼びかけが0と1に還元されるのだとしても、ぼくの記憶や思い出や感情は、そうではない。・・・どうやらぼくは、ただぐるぐるしていただけみたいだ。
時は流れ、状況は変わる。それでもぼくには、聖蹟桜ヶ丘が原点だったし、その事実は忘れたくありません。中学2年の秋、初めて耳をすませばを見た感動を、それにまつわる思い出を、ぼくは原動力にしたい、今を生きる発条にしたい。過去にしがみつくのではない形で。
聖蹟桜ヶ丘か。あまりにも大きな意味を持っている名前なんですよね。最近は、誰かと連れだって行くこともめっきり減ってしまいましたけれど。また、歩きたいなあ。あの頃のように、すがすがしい気持ちで、満ち足りた思いで、目の前の光景に心奪われながら、でも、それは、できないのかなあ。
先日のちい散歩の舞台は聖蹟桜ヶ丘でした。と言っても2008年12月の再放送でしたけどね。駅から多摩川方面へ向かい、それからいろは坂まで歩いていました。けっこうな道のりだったはずです。
聖蹟桜ヶ丘と言えば、何といっても『耳をすませば』です。来る11月6日に、本名陽子さんを招いてのコンサートがそこで催されます。既に応募は締め切られていますが、当日会場に空きがあれば入場できるはずです。去年まではそうでした。
ぼくは毎年応募しているのですが、今年は生憎学会と重なってしまって、どうしても参加できません。11月の最初の土日と言うのは他にも別の学会などがあるみたいで、ちょうどいい時候なんですかねえ。
最近はらきすたなどがアニメで町おこしの代名詞的な存在になりつつありますが、耳をすませばもまた町おこしに貢献しているようです。聖蹟桜ヶ丘に集う耳すまファンは、必ずしも近隣住民にとってありがたい存在ではなかったはずですが、いまこうしてコンサートが毎年開かれるようになり、それに地域の方々が大勢出席されている、ということは、次第に町の文化にこのアニメーション映画が根付いてきたのを物語っているのでしょうか?「外の人間」として、そうなっていることをぼくは素朴に望みます。そして、ぼくのような外の人間を受け入れてくれればいいなと願っています。
さて、ちい散歩ではいろは坂を上ったところの金毘羅宮が終点でしたが、耳すま散歩では当然まだまだ先があります。とりあえずは「地球屋のロータリー」くらいまでは行ってほしかったな。
かつて昔、かつて昔、
ぼくは隣駅の百草園から、いろは坂を越え、ロータリーを抜け、遠くの団地まで歩き通したことがありました。かなりの道のりだったはずです。あれは秋の深まる紅葉の頃でした。あれからぼくは、更に歩き続けていたんだろうか。ときに立ち止まり、回り道をし、あえぎながら、それでもぼくは歩き続けていたんだろうか。後悔は山ほどあります。この聖蹟にまつわる後悔もあります。それでも、ぼくは聖蹟桜ヶ丘から、遠いところに来てしまったんだろうか。それとも、この場所の周りをただぐるぐる回っていたのだろうか。君は、どうなんだい?
呼びかけは空しくキーボードで文字に変換されるだけ。呼びかけが0と1に還元されるのだとしても、ぼくの記憶や思い出や感情は、そうではない。・・・どうやらぼくは、ただぐるぐるしていただけみたいだ。
時は流れ、状況は変わる。それでもぼくには、聖蹟桜ヶ丘が原点だったし、その事実は忘れたくありません。中学2年の秋、初めて耳をすませばを見た感動を、それにまつわる思い出を、ぼくは原動力にしたい、今を生きる発条にしたい。過去にしがみつくのではない形で。
聖蹟桜ヶ丘か。あまりにも大きな意味を持っている名前なんですよね。最近は、誰かと連れだって行くこともめっきり減ってしまいましたけれど。また、歩きたいなあ。あの頃のように、すがすがしい気持ちで、満ち足りた思いで、目の前の光景に心奪われながら、でも、それは、できないのかなあ。