今日は本当は学校の図書館に行く予定だったのですが、なんとなく眠いしだるいし暑いしでやめて、その代わりに近所の図書館に行ってきました。うちだとどうもやる気が起きそうにないけど、図書館でだったら半強制的に読書するだろう、と。
パステルナーク『リュヴェルスの少女時代』を読み終えました(正確には読了したのは帰宅してからですが)。別の題名で昔出ていたものが今年になって題名を改め出版されたのです。今年はパステルナーク没後50年だそうなので。この昔の本は、ずっと入手したかったのですが、いかんせん見つからない。あとがきによれば、600部しか出なかったそうです。どおりで。
パステルナークは言うまでもなく詩人ですが、『ドクトル・ジバゴ』を書いたことで有名ですよね。これは散文と詩とが奇跡的な融合を果たした驚くべき作品ですが、彼はそれ以前に幾つかの短めの散文を著しています。『リュヴェルス』もその一つ。パステルナークの短い散文小説で、ぼくの読んだことのあるものは、どれもかなり奇妙で、一つの物語としての体をなしていないように見えました。その点で、『リュヴェルス』は一応の小説としての体裁は整えており、確かに詩人らしい比喩が頻出するとはいえ、それなりに読み応えがあります。
しかし、そこはパステルナークの散文、一筋縄ではいきません。はっきり言って、あまりおもしろいとは言えず、万人にお薦めできるような小説ではありません。こういうのを嗜む人は、たぶん日本人のごく僅かでしょうね。ああ、ぼくもこういうのが好きだと言えるようになりたいものだ・・・ということは、やはりぼくにもよく分からなかったのですね。
家で読んでいたら、途中で苦しくなって投げ出していたかもしれませんが、図書館では違いました。気分転換に、と思って辺りの本を物色。村上春樹の小説を手に取ったり、イギリス怪奇小説集の目次を眺めたり、ちょっと違う場所に置かれていたブローティガンの小説を正しい位置に戻したり・・・。そうこうするうちに、読書中に起こるあの気怠さと苦痛は霧散し、ぼくは再び『リュヴェルス』に取り掛かりました。
この小説は、あとがきにもありましたが、「未知のままに生起する現象を、その未知のままに、謎のままに描いて、一人の少女の成長がじょじょに見えてくる」という不思議な魅力を備えています。読みながら、まさにこれと同じことを思い、感じていました。これは確かに「魅力」足りえているのですが、しかし一方で「意味を分からなくする」という危険を併せ持っています。ぼんやり読み進めてゆくと、いま何が書かれているのか、それは誰なのか、途端に曖昧になり、小説の森の中に置き去りにされてしまうのです。まるで少女の人生を体験しているようでもあり、あるいはこれが普遍的な人生そのものなのかもしれず、ともかく子供時代の人生経験というものをありのままに味わわせてくれる、稀有な書物です。子供時代には、周囲で何が起きているのか実はほとんど知らない(知らされるのは後になってから)とすれば、この小説はまさしく子供時代を読者に経験させます。そして人生というものがえてしてそうなのだとすれば、人生を読者に経験させていることになります。人生の本質的部分、と正確には言えるでしょう。このことを可能にしているのは恐らくパステルナークの曇りなき眼であり、詩人として培ってきた手法であるでしょう。(ふと、これをアニメーションにしたらおもしろいな、と思った)
とまあ、こういうことが一応言えるわけですが、いわゆるリーダビリティは高くないですね。時間を持て余しているとき、気持ちにゆとりがあるとき、じっくり読書がしたいとき、にお薦めです。
パステルナーク『リュヴェルスの少女時代』を読み終えました(正確には読了したのは帰宅してからですが)。別の題名で昔出ていたものが今年になって題名を改め出版されたのです。今年はパステルナーク没後50年だそうなので。この昔の本は、ずっと入手したかったのですが、いかんせん見つからない。あとがきによれば、600部しか出なかったそうです。どおりで。
パステルナークは言うまでもなく詩人ですが、『ドクトル・ジバゴ』を書いたことで有名ですよね。これは散文と詩とが奇跡的な融合を果たした驚くべき作品ですが、彼はそれ以前に幾つかの短めの散文を著しています。『リュヴェルス』もその一つ。パステルナークの短い散文小説で、ぼくの読んだことのあるものは、どれもかなり奇妙で、一つの物語としての体をなしていないように見えました。その点で、『リュヴェルス』は一応の小説としての体裁は整えており、確かに詩人らしい比喩が頻出するとはいえ、それなりに読み応えがあります。
しかし、そこはパステルナークの散文、一筋縄ではいきません。はっきり言って、あまりおもしろいとは言えず、万人にお薦めできるような小説ではありません。こういうのを嗜む人は、たぶん日本人のごく僅かでしょうね。ああ、ぼくもこういうのが好きだと言えるようになりたいものだ・・・ということは、やはりぼくにもよく分からなかったのですね。
家で読んでいたら、途中で苦しくなって投げ出していたかもしれませんが、図書館では違いました。気分転換に、と思って辺りの本を物色。村上春樹の小説を手に取ったり、イギリス怪奇小説集の目次を眺めたり、ちょっと違う場所に置かれていたブローティガンの小説を正しい位置に戻したり・・・。そうこうするうちに、読書中に起こるあの気怠さと苦痛は霧散し、ぼくは再び『リュヴェルス』に取り掛かりました。
この小説は、あとがきにもありましたが、「未知のままに生起する現象を、その未知のままに、謎のままに描いて、一人の少女の成長がじょじょに見えてくる」という不思議な魅力を備えています。読みながら、まさにこれと同じことを思い、感じていました。これは確かに「魅力」足りえているのですが、しかし一方で「意味を分からなくする」という危険を併せ持っています。ぼんやり読み進めてゆくと、いま何が書かれているのか、それは誰なのか、途端に曖昧になり、小説の森の中に置き去りにされてしまうのです。まるで少女の人生を体験しているようでもあり、あるいはこれが普遍的な人生そのものなのかもしれず、ともかく子供時代の人生経験というものをありのままに味わわせてくれる、稀有な書物です。子供時代には、周囲で何が起きているのか実はほとんど知らない(知らされるのは後になってから)とすれば、この小説はまさしく子供時代を読者に経験させます。そして人生というものがえてしてそうなのだとすれば、人生を読者に経験させていることになります。人生の本質的部分、と正確には言えるでしょう。このことを可能にしているのは恐らくパステルナークの曇りなき眼であり、詩人として培ってきた手法であるでしょう。(ふと、これをアニメーションにしたらおもしろいな、と思った)
とまあ、こういうことが一応言えるわけですが、いわゆるリーダビリティは高くないですね。時間を持て余しているとき、気持ちにゆとりがあるとき、じっくり読書がしたいとき、にお薦めです。