本当に何日も更新しなくなってしまった。たぶん一週間ぶりの更新です。
この間、特に何か変わったことがあったわけではないのですが、金曜ロードショーで『紅の豚』が放送されたので、その感想でも書いておこうかな、と。
前回は2007年の5月25日に放送、視聴率は15%でした。まあまあといったところでしょう。『紅の豚』は宮崎駿監督作品としてはたぶんそれほど人気があるわけではなくて、視聴率も14%くらいから20%くらいを行ったり来たりしています。初めてテレビで放送されたのは1993年の10月15日、このときは20,9%でした。しかしその後は2003年に18,7%、1998年に17,8%だったのを除いて低迷しており、同じ宮崎駿のラピュタやトトロに比べるとやはり低人気のようです。
さて、『紅の豚』で物語の核になっているのは、ポルコが戦争中に自らに魔法をかけて豚になった、という設定なのですが、そのようなシーンはこの映画に登場しません。ただ、戦争中の臨死体験(?)を回想するシーンがあるばかりです。ちなみにこの臨死体験のシーンは、以前にこのブログでも書きましたが、ロアルド・ダールの短編小説が明らかにモチーフになっており、ダールの影響が強く感じられます。
戦争と魔法、というと思い出すのはハウルです。紅の豚では、戦争が終結して何年も経ち、それからまた徐々に世界の雲行きが怪しくなり、ファシストが台頭してきたイタリアが舞台になっています。世界大戦に挟まれていた時代です。一方ハウルでは、戦争が始まる頃が物語の幕開け。
紅の豚では、魔法というものがかなりぼかされています。世界恐慌やファシストの台頭を描くなど現実に取材している一方で(シュナイダー・カップも現実にあったらしい)、なぜか豚の姿をしているポルコ。リアルな世界の中に一つだけファンタジックな要素が混ざっており、しかしそれに対して誰も何も疑問に思わない。ハウルのように魔法や魔法使いがありふれて存在している世界ではないのに、ポルコだけが豚の姿をしていて、しかも自分に魔法をかけたのだという。これは一体どういうことなのか。
アニメーション映画ということで、観客はそのような設定にも慣れ親しんでいるから不思議に思わない、ということはある。しかしそれとは別の次元、映画の世界内の次元で、ポルコの存在を皆が受け入れてしまっていることが不思議なのです。現実の歴史を描いている中で、なぜポルコだけが魔法を使えるのか。その答えは今のぼくには出せないのですが、しかし確かだと思われるのは、紅の豚からハウルに至るまでの、宮崎駿の中における魔法観の成熟です。
ハウルにおける魔法は、驚くべきものでした。ソフィーにかけられた魔法は、結局のところ解けたのか解けなかったのか、そもそもいかなる魔法がかけられたのか、いまだに論争の余地があります。一つの可能性として、ソフィーにかけられた魔法とは、心も持ちようが体に反映される魔法、という回答を想定することができますが、とすると、ソフィーにかけられた魔法は結局解かれなかったのかもしれません。魔法使いが人の姿を変える魔法をかけて、それが最後には解かれる、という当たり前の魔法の構図はここでは当てはまりません。これは、少女が異世界に行って帰ってきたときには成長している、という当たり前の成長物語を髣髴とさせます。千と千尋は、実はこの成長神話を壊した映画でした。千と千尋は成長神話を破壊し、ハウルは「魔法神話」を破壊しました。
紅の豚という作品は、このような宮崎駿の既成概念をひっくり返す思想のまだ成熟していない頃の作品なのではないか、という気がします。映画では、ポルコが最後人間に戻ったようなことが暗示されますが、その成否は分からずじまいです。宮崎駿において魔法というものが心の持ちようと密接にかかわっているのならば、ポルコは自らを豚としてみなしてきたが、最後には再び人間とみなすようになった、と言うことができます。もちろんそのきっかけはフィオであり、彼女のおかげでポルコは(もはやポルコではなくマルコと呼びましょう)人間を再評価し始めたのでした。
しかし、紅の豚ではこのあたりのことが曖昧で、魔法のその世界の中での位置づけが定まっていません。魔法によって豚になったその外観は本当に心象を表しているのか、などは推測の域を出ません。現実世界にあってマルコ一人が豚であることの奇妙さも解決しません。いったいこの映画は何なのか。ぼくは、『紅の豚』は宮崎駿の長編映画史の中で前期から後期への「移行期」の作品だと捉えていますが、そのあたりにこの作品を読み解く難しさがあるような気がしています。
宮崎駿における魔法。そういうテーマの本を書くとしたら、『紅の豚』は間違いなく非常に重要な作品であり、そして位置づけが最も難しい作品となるでしょう。ただ、そういう小難しいことは考えずに、映画に時折り挿入される美しい抒情的な風景と切ない旋律に恍惚となるのもまた楽しい。「きれい・・・世界って本当にきれい」(フィオ)。
この間、特に何か変わったことがあったわけではないのですが、金曜ロードショーで『紅の豚』が放送されたので、その感想でも書いておこうかな、と。
前回は2007年の5月25日に放送、視聴率は15%でした。まあまあといったところでしょう。『紅の豚』は宮崎駿監督作品としてはたぶんそれほど人気があるわけではなくて、視聴率も14%くらいから20%くらいを行ったり来たりしています。初めてテレビで放送されたのは1993年の10月15日、このときは20,9%でした。しかしその後は2003年に18,7%、1998年に17,8%だったのを除いて低迷しており、同じ宮崎駿のラピュタやトトロに比べるとやはり低人気のようです。
さて、『紅の豚』で物語の核になっているのは、ポルコが戦争中に自らに魔法をかけて豚になった、という設定なのですが、そのようなシーンはこの映画に登場しません。ただ、戦争中の臨死体験(?)を回想するシーンがあるばかりです。ちなみにこの臨死体験のシーンは、以前にこのブログでも書きましたが、ロアルド・ダールの短編小説が明らかにモチーフになっており、ダールの影響が強く感じられます。
戦争と魔法、というと思い出すのはハウルです。紅の豚では、戦争が終結して何年も経ち、それからまた徐々に世界の雲行きが怪しくなり、ファシストが台頭してきたイタリアが舞台になっています。世界大戦に挟まれていた時代です。一方ハウルでは、戦争が始まる頃が物語の幕開け。
紅の豚では、魔法というものがかなりぼかされています。世界恐慌やファシストの台頭を描くなど現実に取材している一方で(シュナイダー・カップも現実にあったらしい)、なぜか豚の姿をしているポルコ。リアルな世界の中に一つだけファンタジックな要素が混ざっており、しかしそれに対して誰も何も疑問に思わない。ハウルのように魔法や魔法使いがありふれて存在している世界ではないのに、ポルコだけが豚の姿をしていて、しかも自分に魔法をかけたのだという。これは一体どういうことなのか。
アニメーション映画ということで、観客はそのような設定にも慣れ親しんでいるから不思議に思わない、ということはある。しかしそれとは別の次元、映画の世界内の次元で、ポルコの存在を皆が受け入れてしまっていることが不思議なのです。現実の歴史を描いている中で、なぜポルコだけが魔法を使えるのか。その答えは今のぼくには出せないのですが、しかし確かだと思われるのは、紅の豚からハウルに至るまでの、宮崎駿の中における魔法観の成熟です。
ハウルにおける魔法は、驚くべきものでした。ソフィーにかけられた魔法は、結局のところ解けたのか解けなかったのか、そもそもいかなる魔法がかけられたのか、いまだに論争の余地があります。一つの可能性として、ソフィーにかけられた魔法とは、心も持ちようが体に反映される魔法、という回答を想定することができますが、とすると、ソフィーにかけられた魔法は結局解かれなかったのかもしれません。魔法使いが人の姿を変える魔法をかけて、それが最後には解かれる、という当たり前の魔法の構図はここでは当てはまりません。これは、少女が異世界に行って帰ってきたときには成長している、という当たり前の成長物語を髣髴とさせます。千と千尋は、実はこの成長神話を壊した映画でした。千と千尋は成長神話を破壊し、ハウルは「魔法神話」を破壊しました。
紅の豚という作品は、このような宮崎駿の既成概念をひっくり返す思想のまだ成熟していない頃の作品なのではないか、という気がします。映画では、ポルコが最後人間に戻ったようなことが暗示されますが、その成否は分からずじまいです。宮崎駿において魔法というものが心の持ちようと密接にかかわっているのならば、ポルコは自らを豚としてみなしてきたが、最後には再び人間とみなすようになった、と言うことができます。もちろんそのきっかけはフィオであり、彼女のおかげでポルコは(もはやポルコではなくマルコと呼びましょう)人間を再評価し始めたのでした。
しかし、紅の豚ではこのあたりのことが曖昧で、魔法のその世界の中での位置づけが定まっていません。魔法によって豚になったその外観は本当に心象を表しているのか、などは推測の域を出ません。現実世界にあってマルコ一人が豚であることの奇妙さも解決しません。いったいこの映画は何なのか。ぼくは、『紅の豚』は宮崎駿の長編映画史の中で前期から後期への「移行期」の作品だと捉えていますが、そのあたりにこの作品を読み解く難しさがあるような気がしています。
宮崎駿における魔法。そういうテーマの本を書くとしたら、『紅の豚』は間違いなく非常に重要な作品であり、そして位置づけが最も難しい作品となるでしょう。ただ、そういう小難しいことは考えずに、映画に時折り挿入される美しい抒情的な風景と切ない旋律に恍惚となるのもまた楽しい。「きれい・・・世界って本当にきれい」(フィオ)。