Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

地図男

2010-07-25 23:34:53 | 文学
真藤順丈『地図男』を一気読み。
2008年の話題作ですね。現代日本の小説を読むことはぼくにとっては珍しいことなのですが、今日図書館に行ったらふと読みたかったのを思い出して、手に取ってみました。

感想。
たぶん、小説のアレゴリーなんだと思う。地図男は、分厚い地図帳に直接、あるいは付箋をたくさん貼り付けて、東京周辺の物語を書きこんでゆく。天才的な音楽センスを持った幼児Mの物語、東京23区で密かに繰り広げられているという、刺青として肉体に刻まれた「区章」争奪戦の物語、そして多摩川を挟んですれ違うムサシとアキルの物語。ただしそれらの物語の背後には、地図男自身の物語が隠されていた・・・。と簡単に要約できるのですが、この小説のポイントは、それぞれの物語そのものというよりは、それを語る語り口(文体というよりは語り口と言った方が正確か)、それとこの『地図男』自体の持つ小説というジャンルへのメタ性でしょう。

地図帳に書かれた物語は、何ページにも分割されて綴られており、ふつうの小説が1ページ目から300ページ目まで順々に進行してゆくのとは違い、飛び飛びになっていて、地図帳という分厚い本を行ったり来たりしなくては読み進めることができません。いわば、小説のリニアな構造を破壊しているわけです。コルタサルの『石蹴り遊び』やパヴィチの『ハザール事典』など、実際の小説にもそうした試みのものがありますが、『地図男』はそうした小説を小説の中に登場させたわけです。

この錯綜した物語の海の中で、全てを切り結んでしまうような人物が登場するのですが、その人物を出現させたことに批判はあるでしょう。せっかくのボルヘス的・迷宮的な構造が無に帰してしまうから。もちろんそういう批判がありうるのは分かるのですが、ただしこの『地図男』という小説は、なにもボルヘス的でラディカルな書物をのみ志向していたわけではないと思うのです。もう一つ大事なのは、語り。語りの口調そのものも大切ですが、誰が、誰に語るのか。これがたぶん『地図男』において一番重要なことだったはずです。そしてそれは、小説のアレゴリーたる『地図男』の中で、小説一般にとって普遍的な問題でありうる誰が誰に語るのか、という問題を読者に問いかける役割を果たしているように思えるのです。『地図男』における「誰が誰に語るのか」は、小説一般における「誰が誰に語るのか」という問題に直結し、そしてその問題は、作者によって「特定の誰かが特定の誰か」に語るのだ、という回答を得ているのです。

そのためには、恐らく多くの読者にとって単なるメロドラマに見えるだろう後半の「純愛物語」が必要だったのです。君があなたに。あなたが君に。ねえ、で呼びかけられる、切実な物語。ここには、あの人に伝えたい、という小説の最も根源的な部分が書き込まれています。形式的には先鋭的で、しかし実は初源的、それが『地図男』です。

各々のエピソードや語りにそれほど魅力が感じられないのは残念なので、必ずしも高い評価はできませんが、しかしこの初々しいながらも野心に満ちた小説の誕生は、うれしいことではあります。