Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

アリエッティ ネタばれ少しある方向で手厳しく

2010-07-18 01:07:45 | アニメーション
このブログを定期的に見てくださっている方々は、ぼくがジブリ作品を好きなのはお分かりなのだろうと想像します。アニメーションが好きになるきっかけはもともとジブリだったし、ジブリ作品についてはあまり悪口は言いたくない。実際、悪口を言わねばならないような作品はほとんどない。

しかし、あえてジブリに対して厳しいことを言います。
これは悪口ではありません。少なくともぼくにそのつもりはない。憂い、と言えば正しいでしょう。

この作品の方向で進んでゆけば、ジブリは間違いなく終わります。
なぜか。
作品がつまらないからとか、出来が悪いからとか、そういうことではありません。そういうことはむしろ仕方のないことで、つまらないからジブリ終わったなとか、そういうことは言いたくない。ではなぜ、これでは終わってしまう、とぼくが危機感を抱いたかと言えば、ジブリが予定調和に入ってしまい、冒険しなくなったからです。

アリエッティを作った人たちは、ジブリ作品がいかなるものなのか、ということを本当によく理解している。いや正確に言えば、ジブリ作品の一般的なイメージをよく理解している。ジブリ作品は恐らくこのように世間に受容されているだろう、ということを実によく理解している。そして彼らはそのイメージに忠実に作り上げた。小人というファンタジックな設定がある、冒険がある、少女と少年との淡い触れ合いがある、美しい自然描写がある、等々。

主に宮崎駿が作り上げてきたものを、再生産しているのです。しかも縮小しながら。一方で宮崎駿は、過去に自らが築いたものを破壊する傾向が年々強まっています。この乖離性はなんなのか。宮崎駿は壊し、(高畑勲を除く)他の人々は宮崎駿の縮小再生産を繰り返す。宮崎駿は脱皮し続けているのに対し、新しい監督はその古い皮を寄せ集めてパッチワークをしている。

この新しい監督たち(ゲドとアリエッティ)は、冒険をしない。ジブリのイメージや宮崎駿らしさを求めて、粗悪な模造品を作り上げる。高畑勲や宮崎駿がこの先映画を作れなくなったとき、ジブリは過去の作品に似たもの(しかし結局は似ても似つかない代物)を生産するだけになってしまう予感がします。

ジブリが終わってしまう、と感じたのは、若い人たちの冒険心のなさにショックを受けたから。仮にジブリが存続したとしても、それはもはやジブリではありません。ジブリらしさとやらを守り続ける安心安全な「良作」しか生み出さないのでは、つまらない。もっと革新的なものが見たい。宮崎駿が先へ先へと歩を進めているように、他の人たちもせめてその心意気をもってほしい。可もなく不可もないような、「いい話」で終わってしまうだけの作品なんて、ジブリが作る意味があるのでしょうか。

猫(ニーヤ)の役割は明らかに耳すまのムーンをモチーフにしており、その風体までそっくりなのには驚かされる。
最初の車の移動は千と千尋の冒頭を髣髴させる。
宮崎アニメではお馴染みの洗濯物干しがなぜかここにも。
物静かな老婦人と好奇心旺盛な家政婦という組み合わせは魔女宅と同じ。

物語は平板で、起伏がありません。起伏がない作品でもいい作品はありますが、これはただ単に人物の行為を見せているだけで、正直退屈します。作画としてのおもしろさで演出力の不足を補ってほしいところですが、それもない。伏線はあるのに、回収されない。

この作品でたぶん最も大事なことの一つは、小人から見た人間世界の描写であり、端的に言えば世界の異化にあります。世界を、全く新鮮な目で見ること。この目を観客がアリエッティたちと共有することで、映画館を出た後も、世界を今までとは違った風に見つめることができるようになる、それが期待されるべきなのでしょう。

この映画では、異様に響く時計の音、やけに大きく感じられるバッタなど、小人から見た世界が確かに描かれます。でも、これは我々の想像力の範囲内なのではないのか。あの程度の世界なら、たぶん誰だって想像できる。宮崎駿は、かつてこんなことを語っていました。ハチは雨をよけられるし、鳥は風が見えるのだ、と。ハチにとって雨ははっきりと目に見えるものであり、雨粒がへこみながらフニュフニュして降って来るのが分かる。それはぼくらにとっての雨ではないかもしれない。しかし、小人にとっての雨とはそういうもののはずなんです。世界を小人の側から描くのなら、そこまでやらないといけない。単に時計が大きな音を立てるとか、バッタがバタバタとんでるとか、ネズミが大きくて怖いとか、そんなのは別に当たり前のことで、驚きようがない。

世界を見る目が洗われるような体験ができなければ、小人の世界を描いた意味はない、と言ったら言い過ぎかもしれません。でも、この映画はぼくの人生観を変えさせるような映画にはなりえていないし、そもそも人の人生観を変えてやる、というその心意気がなかったように思えてなりません。ジブリテーストの良質な作品を作りました。それでおしまい。

映画自体がドールハウスみたいな小さな佇まいですから、ある人は言うでしょう、つまらない。ある人は言うでしょう、佳品である。小粒ではあるが、悪くない、と。でも、そこそこの作品を作ることにどれだけの意味があるのか。これまでのジブリ作品の寄せ集めで、さしたる欠点もあるわけではない。感受性の強い人ならしみじみできる。でも、多くの人の心の奥底を根底から揺さぶるような、圧倒的な体験をさせることを希求しているようには見えないこの作品は、ジブリが作る意味はあったのか。

アリエッティについて語るつもりが、ほとんどジブリの今後やあり方を心配する内容になってしまいましたが、それというのもアリエッティについてはあまり言うべきことが見つからないから。これは自分にとって悲しいことです。

ぼくは世界を見る目を変えてくれる作品に出会いたい。