今日、きのうの記事を読み返してもう一度よく考えてみたのですが、宇野常寛氏に対する批判は、ひょっとするとあまりフェアではなかったかもしれない。
というのも、第一に、聖司の台詞に着目して、コンクリート・ロードを肯定的なものとして捉えるという考え自体は、必ずしも誤読とは言えないからです。きのうは誤読と書きましたが、深読みのしすぎと言い換えましょう。あの台詞はストーリーの流れとしては、聖司の雫に対する態度の変化やそのあり方を示唆するものだったことは確かなのですが、注意深い観客にとっては、なるほど人工的なものを肯定する制作者の意志と捉えられるのかもしれない。
第二に、あの作品レビューは非常に短いものであり、そこだけから宇野氏の考えを読み取ることは困難だったからです。例えば、コンクリート・ロードを肯定することが即、開発の肯定(もちろん諦念から出発しての)に繋がるのかどうか、そういうごく基本的なことでさえも宇野氏に聞いてみなければ分からない。
宮崎アニメに対するある確固とした考えがあり(ちなみに宇野氏は『耳をすませば』を宮崎アニメとみなしている)、それに基づいて作品を分析する宇野氏の批評方法は、その「確固とした考え」に首肯できない人間にとって少々腹立たしいものに映るので、その時点で反感を抱いたままブログに批判的なことを書いてしまったのですが、冷静に判断してみると、聖司の台詞の件で宇野氏の言っていることには一応の妥当性がある。
『耳をすませば』が環境と人間との相互問題を大きく取り上げており、とりわけ開発された環境の中で人間がいかに生きるべきかということを問うている、ということを宇野氏が認識していたかどうかは判然としません。しかし、宇野氏の限られた字数のレビューを読むと、そのように認識していたとみなしたくなる。そのような認識自体は間違っていない、と考えます。もしも宇野氏の意見がぼくと同じなのであれば、彼は聖司の台詞をその問題に切り込む象徴的なものとして使用したと言えるでしょう。ですが、この使用が曲者なのです。この問題を指摘するためなら、もっと他によい箇所がある(井上ひさしの『耳をすませば』に関するエッセーを参照)。宇野氏の挙げた例では、この問題は副次的な意味でしかなく、その第一義的な意味はやはり聖司と雫との心の交流を象るもののはずです。
宇野氏が、本当に聖司の台詞を出発点にして環境と人間との相互問題に気付いたのか(もしも気付いていたとしての話です)、それとも別の個所、別の文脈からそのように想到するに至ったのか、ということについては、対談形式のこの短い作品レビューからは分かりません。いずれにしろ、あまりはっきりしない思考経路を度外視して宇野氏を批判してしまったのは、ちょっとフェアではなかったかな、と反省した次第です。
宇野常寛がジブリ作品に対してどれだけ理解があるのか、ということはもっとしっかりした論文を読んでみないと分からなさそうです。彼に対する評価は保留ということで。
というのも、第一に、聖司の台詞に着目して、コンクリート・ロードを肯定的なものとして捉えるという考え自体は、必ずしも誤読とは言えないからです。きのうは誤読と書きましたが、深読みのしすぎと言い換えましょう。あの台詞はストーリーの流れとしては、聖司の雫に対する態度の変化やそのあり方を示唆するものだったことは確かなのですが、注意深い観客にとっては、なるほど人工的なものを肯定する制作者の意志と捉えられるのかもしれない。
第二に、あの作品レビューは非常に短いものであり、そこだけから宇野氏の考えを読み取ることは困難だったからです。例えば、コンクリート・ロードを肯定することが即、開発の肯定(もちろん諦念から出発しての)に繋がるのかどうか、そういうごく基本的なことでさえも宇野氏に聞いてみなければ分からない。
宮崎アニメに対するある確固とした考えがあり(ちなみに宇野氏は『耳をすませば』を宮崎アニメとみなしている)、それに基づいて作品を分析する宇野氏の批評方法は、その「確固とした考え」に首肯できない人間にとって少々腹立たしいものに映るので、その時点で反感を抱いたままブログに批判的なことを書いてしまったのですが、冷静に判断してみると、聖司の台詞の件で宇野氏の言っていることには一応の妥当性がある。
『耳をすませば』が環境と人間との相互問題を大きく取り上げており、とりわけ開発された環境の中で人間がいかに生きるべきかということを問うている、ということを宇野氏が認識していたかどうかは判然としません。しかし、宇野氏の限られた字数のレビューを読むと、そのように認識していたとみなしたくなる。そのような認識自体は間違っていない、と考えます。もしも宇野氏の意見がぼくと同じなのであれば、彼は聖司の台詞をその問題に切り込む象徴的なものとして使用したと言えるでしょう。ですが、この使用が曲者なのです。この問題を指摘するためなら、もっと他によい箇所がある(井上ひさしの『耳をすませば』に関するエッセーを参照)。宇野氏の挙げた例では、この問題は副次的な意味でしかなく、その第一義的な意味はやはり聖司と雫との心の交流を象るもののはずです。
宇野氏が、本当に聖司の台詞を出発点にして環境と人間との相互問題に気付いたのか(もしも気付いていたとしての話です)、それとも別の個所、別の文脈からそのように想到するに至ったのか、ということについては、対談形式のこの短い作品レビューからは分かりません。いずれにしろ、あまりはっきりしない思考経路を度外視して宇野氏を批判してしまったのは、ちょっとフェアではなかったかな、と反省した次第です。
宇野常寛がジブリ作品に対してどれだけ理解があるのか、ということはもっとしっかりした論文を読んでみないと分からなさそうです。彼に対する評価は保留ということで。