雑誌『BRUTUS』のジブリ特集について。
この本の中で、ジブリ作品のレビューが宇野常寛と香椎由宇との対談形式でなされているのですが、その内容があまりにお粗末というか、レベルが低いのでげんなり。女優の香椎さんが質問して評論家の宇野氏が答える、という形式を踏んでいるのですが、その回答がよくないのですね。宇野氏は『ゼロ年代の想像力』で注目を集めた若い論客ですが、たぶんジブリ作品全般について真剣に考察したことがないのでしょう。
耳をすませばのレビューで、彼はこんなことを述べています。以下、引用。
※※※
「宇野 (・・・)聖司が現代の消費社会を皮肉った「コンクリート・ロード」という歌を歌うんですが、彼は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とも言うんです。以前の宮崎さんならコンクリート・ロードなんて許さなかったはずですよね。もちろん、「でも」と言っているので、肯定はしていませんが。
香椎 じゃあ、諦めなんですか?
宇野 諦めたうえで、ニヒリズムに負けず前向きに生きていこうということですよね。」
※※※
これは対談ですから、聖司の台詞の引用が正確でないこと自体は大目に見ます。聖司は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とは言いません。でも、問題なのは、宇野氏がこの間違った引用である「でも」に注目して、そこを出発点に「ニヒリズムに負けず前向きに生きていこう」というテーマを導き出してしまっている点。また、「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」というニュアンスがその宇野氏の結論に奉仕してしまっている点。これでは、聖司が誰かと環境問題を論じた末にコンクリート・ロードでもいのだ、と話しているかのような錯覚を読者に与えかねません。
正しくは、「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」。そもそもコンクリート・ロードは雫がふざけて作詞した歌であり、それを偶然見つけた聖司がやはりからかいを込めて歌います。そして、雫がカントリーロードを歌った後に、聖司が「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」と言うのです。
耳をすませばという作品では確かに環境問題がかなり深刻なテーマになっていると言えます。コンクリート・ロードという歌が登場するのもその要素の一つであるでしょう。しかしながら、聖司の「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」という台詞は、雫との交流の中から生じた台詞であって(最初はそっけなかった聖司の態度が実は本心からではなかったことを端的に示している例となっている)、ここに宮崎駿の意図を読み取り、ニヒリズムや諦念、そして肯定への意志を汲み取ってゆくのは「誤読」と言わざるを得ない。
恐らく最初に結論があり、作品のあらゆる細部をそれに奉仕させてしまっているのでしょう。しかし、これはすぐれた批評の在り方ではありません。作品は一つの結論に向かって完璧に統合されるべきものではなく、むしろ統合から逃れ出るものです。細部というものは統合のための部品なのではなく、つまり全体の中の一部に過ぎないのではなく、それ自体で意味を持ちうる自由な存在であって、統合を嫌うことはままあるのです。このことが分かっていない。
耳をすませばは典型的な例でしたが、宇野氏は他の作品でも同様の誤りを犯しており(自論に作品を奉仕させている)、正直言って、少々腹立たしい。自分なりの信念なり思想なりがあって、それに基づいて作品を論じていることに鋭さや快楽を覚える読者もいるのかもしれませんが、それと同時に、こうした言説がより多くの評論家嫌いを生み出していることを、そろそろ評論家や批評家は自覚するべきです。まず作品があり、そこから真摯に思考してほしい。不確かな己の考えを作品全体に適用しないでもらいたいのです。作品からあるテーマを導出するのは自由ですが、それを確立させるために細部を利用し、捻じ曲げてしまうことは控えてもらいたい。ブログなどで意見を開陳するのは構いませんが、本の中の作品レビューで、これが「解答」であるかのように意見を提出するのはやめてほしいのです。まあ、これは宇野氏に言っても詮ないことではありますが。
というわけで、ぼくの言えるのは、この作品レビューはあてにすんなよ、ということです。
この本の中で、ジブリ作品のレビューが宇野常寛と香椎由宇との対談形式でなされているのですが、その内容があまりにお粗末というか、レベルが低いのでげんなり。女優の香椎さんが質問して評論家の宇野氏が答える、という形式を踏んでいるのですが、その回答がよくないのですね。宇野氏は『ゼロ年代の想像力』で注目を集めた若い論客ですが、たぶんジブリ作品全般について真剣に考察したことがないのでしょう。
耳をすませばのレビューで、彼はこんなことを述べています。以下、引用。
※※※
「宇野 (・・・)聖司が現代の消費社会を皮肉った「コンクリート・ロード」という歌を歌うんですが、彼は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とも言うんです。以前の宮崎さんならコンクリート・ロードなんて許さなかったはずですよね。もちろん、「でも」と言っているので、肯定はしていませんが。
香椎 じゃあ、諦めなんですか?
宇野 諦めたうえで、ニヒリズムに負けず前向きに生きていこうということですよね。」
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これは対談ですから、聖司の台詞の引用が正確でないこと自体は大目に見ます。聖司は「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」とは言いません。でも、問題なのは、宇野氏がこの間違った引用である「でも」に注目して、そこを出発点に「ニヒリズムに負けず前向きに生きていこう」というテーマを導き出してしまっている点。また、「コンクリート・ロードでもいいじゃないか」というニュアンスがその宇野氏の結論に奉仕してしまっている点。これでは、聖司が誰かと環境問題を論じた末にコンクリート・ロードでもいのだ、と話しているかのような錯覚を読者に与えかねません。
正しくは、「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」。そもそもコンクリート・ロードは雫がふざけて作詞した歌であり、それを偶然見つけた聖司がやはりからかいを込めて歌います。そして、雫がカントリーロードを歌った後に、聖司が「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」と言うのです。
耳をすませばという作品では確かに環境問題がかなり深刻なテーマになっていると言えます。コンクリート・ロードという歌が登場するのもその要素の一つであるでしょう。しかしながら、聖司の「おれ、コンクリート・ロードの方も好きだぜ」という台詞は、雫との交流の中から生じた台詞であって(最初はそっけなかった聖司の態度が実は本心からではなかったことを端的に示している例となっている)、ここに宮崎駿の意図を読み取り、ニヒリズムや諦念、そして肯定への意志を汲み取ってゆくのは「誤読」と言わざるを得ない。
恐らく最初に結論があり、作品のあらゆる細部をそれに奉仕させてしまっているのでしょう。しかし、これはすぐれた批評の在り方ではありません。作品は一つの結論に向かって完璧に統合されるべきものではなく、むしろ統合から逃れ出るものです。細部というものは統合のための部品なのではなく、つまり全体の中の一部に過ぎないのではなく、それ自体で意味を持ちうる自由な存在であって、統合を嫌うことはままあるのです。このことが分かっていない。
耳をすませばは典型的な例でしたが、宇野氏は他の作品でも同様の誤りを犯しており(自論に作品を奉仕させている)、正直言って、少々腹立たしい。自分なりの信念なり思想なりがあって、それに基づいて作品を論じていることに鋭さや快楽を覚える読者もいるのかもしれませんが、それと同時に、こうした言説がより多くの評論家嫌いを生み出していることを、そろそろ評論家や批評家は自覚するべきです。まず作品があり、そこから真摯に思考してほしい。不確かな己の考えを作品全体に適用しないでもらいたいのです。作品からあるテーマを導出するのは自由ですが、それを確立させるために細部を利用し、捻じ曲げてしまうことは控えてもらいたい。ブログなどで意見を開陳するのは構いませんが、本の中の作品レビューで、これが「解答」であるかのように意見を提出するのはやめてほしいのです。まあ、これは宇野氏に言っても詮ないことではありますが。
というわけで、ぼくの言えるのは、この作品レビューはあてにすんなよ、ということです。