Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ゴーゴリ『死せる魂』

2008-12-03 00:46:07 | 文学
予告どおり、『死せる魂』について。

大学の授業でこの小説を最初から読んでいます。しかも去年から。精読なので、なかなか進みません。一回の授業で読めるのは1、2ページほど。もちろん日本語では既読ですが、こうしてゆっくり読んでゆくと、ゴーゴリという作家は非常におもしろいな、ということに気付きます。

さて、『死せる魂』は原題では「ミョールトブィエ・ドゥーシ」と言います。「ドゥーシ」が「魂」の意味です。ところがこの単語には他にも「農奴」という意味があります。このことは、ロシア語を知っている人、あるいはロシア文学に詳しい人なら誰でも知っていることです。ところで『死せる魂』はまさにこの「農奴」が問題になっている小説です。ある町に突然やって来たチチコフという男が、地主たちから死んだ農奴(死せる農奴)を買い付けていく。その目的は一体なんなのか?というのがこの小説の大まかなストーリー。「じゃあ「死せる農奴」というのが正しい訳なんじゃないの?「死せる魂」なんて、かっこつけたかっただけじゃない?」なんて意見が聞こえてきそうですが、そうではないのです。

作者のゴーゴリは、この小説を『新曲』ばりの三部構成で構想していたと言います。第一部が、この現存している『死せる魂』。第二部はほとんどが焼失してしまい、断片しか残っていません(実は晩年に狂乱したゴーゴリ自身がペチカに原稿を投げ入れた)。この小説でゴーゴリは「ロシア」を描こうとしたのだと言います。第一部ではチチコフの堕落を(「地獄」)、第二部では改心するチチコフを(「煉獄」)、そして第三部で真っ当な人間を(「天国」)を描こうとしたようです。つまり、「ロシアの魂」を描こうとしたのだと言えます。

死せる農奴を扱いながら、その奥で死せる魂とその復活を描出しようとしたわけです。その意味で、邦訳にはやはり「死せる魂」が相応しいとぼくは思います。恐らく原題には二重の意味が込められているのでしょうが、日本語ではそれを表現できないので、より本質的な意味である「魂」を選択したのですね。

さて、『死せる魂』に限らずゴーゴリの文章は非常におもしろいです。日本語では読み飛ばしてしまいそうですが、原語でじっくり読むと、その文体がいかに奇妙か分かります。例えばナボコフの挙げている「脱線」の効果。ゴーゴリの文章はしばしば本筋から脱線し、ストーリーとは直接関係しない細部の描写に執拗にこだわることがあります。細部を描写しながら、その細部が発展して別の出来事が展開することもあります。他にも、こんなのがあります。「彼の出会ったのは、開け放されたドアと老婆であり、彼女は「こちらへどうぞ!」と言った」。ドアと老婆が対等な関係で並置されているのが分かると思いますが、こういうところで滑稽な効果を狙っているわけですね。

また、『鼻』などは、奇妙奇天烈な出来事をかしこまって話しているような可笑しみがあり、文章を読んでいるだけで楽しめます。これはなかなか翻訳では味わえないかもしれませんが、それでもじっくり読むとなかなか味わい深いと思います。

ぼくは、長い間、ゴーゴリはその作品よりも彼自身の人生の方がおもしろい、と思っていたのですが、作品も十分おもしろいぞ、と考え直しました。多くの人には、せめてゴーリキイとの区別くらいは付けて欲しいですね…