Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

メディア芸術祭 受賞作発表

2008-12-11 23:45:46 | アニメーション
少し頭にきている。
メディア芸術祭のことだ。今年度も各分野の受賞作が選ばれ、当然アニメーション部門も受賞作品が決定した。しかし、「ポニョ」が選から洩れている。大賞はもちろん優秀賞にも審査委員会推薦作品にさえ入っていない。これは一体どうしたことだ?

メディア芸術祭のアニメーション部門の審査委員は昨年度から一新され、審査委員長はガンダムの富野氏から鈴木伸一氏に交代した。昨年度の受賞作品は、それまでとは雰囲気が変わったなとぼくは感じていて、その理由の一つにこの審査委員の交代を考えていた。昨年度の受賞作を知ったとき、初め、ぼくは「どうしてこんな作品を?」と思っていたのだが、実際に受賞作を見てみたら、楽しめるものが多く、前年度までより内容を重視するようになったのだと思った。その顕れとして「河童」が大賞に選ばれたのだと。この作品はストーリーテリングも演出も文句なしに巧く、かなりの長尺をそれと感じさせないほどのすばらしい出来で、確かに何らかの賞を付与してもおかしくはない。たとえ審査委員が今までのままでも、大賞に選ばれていたかもしれない。それでも疑問が湧いてくる。本当にそうだったか、と。
内容重視の方向性は、昨年度の審査委員長の講評で示されていた。以下、HPから引用。

                      ☆☆☆

「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待

― 鈴木 伸一(アニメーション部門 主査)

映像作品というものは観る人の知識と好み、思い入れなどにより評価が大きく左右されるものだが、毎年行なわれている文化庁メディア芸術祭では、その年の審査委員の構成にもよるが、数あるジャンルから順当な作品が選ばれていると思う。商業作品は巨額な資金が投入されるため、話題性や認知度でヒットに結びつける場合もあるが、この審査では作品の内容、クオリティが優先される。今年も芸術性、おもしろさ、内容の新しさ、作家の意気込み、将来性など諸々を考慮に入れての選考となった。見方の違いはあったが、今年も良い選出ができたと思っている。異論がある人や作品を見る機会がなかった方は、この結果をもとに、もう一度受賞作品を見てくださるとうれしい。」

                      ☆☆☆

題名に掲げられている「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待」がポイントだと思う。そして「話題性や認知度」のあるヒット作には厳しい目を向けていることが分かる。もちろん、ヒットすればすばらしい作品だ、などという理屈はあまりにも馬鹿馬鹿しくてそれを論駁する気にもならないが、しかし必要以上にシビアな目で作品を見てはいないか?と危惧してしまう。まあしかし、これは取り越し苦労かもしれない。問題は、やはり「説得力や必然性を備えた上質な作品への期待」の方だ。「ポニョ」には、まさにその「説得力や必然性」が不足している。そして「おもしろさ、内容の新しさ」という点でも見劣りがする。ぼくは、これが映画祭だったらこうして文句は言わない。映画祭だったら、「ポニョ」が選ばれなくても納得できる。しかし、れっきとしたアニメーション部門の賞で選外というのは首を傾げざるを得ない。構成の破綻をしたり顔で指摘するどこかの凡俗な映画評論家には、言わせておけばいい。だがかりにもアニメーション業界に携わる者が、「ポニョ」のアニメーションとしての魅力を評価できなくてどうするんだ、と思う。

このCG全盛の時代に手描きにこだわったという監督の意気込みもそうだが、何よりそうしてできたアニメーションによって表現された事柄の豊かさを見逃してしまったのだろうか?あの海の描写に痙攣するほどの感動をしないアニメーターは果たしてアニメーターと言えるのか?「できるだけ動かさないようにすること」が日本アニメ界の伝統であることは夙に知られているが、その伝統を打ち壊し、描けるだけ描いてものの見事にあのうねり狂う海を活写し得た功績を、アニメーター以外に誰が讃えようと言うのか?また、愚直に明確なストーリーに沿って進むという映画の骨法を破壊したという点でもそろそろ宮崎駿は公的な評価を受けてもいい頃だ。前衛的な実写映画には早くから見られるパターンかもしれないが、しかしそうした方法論というか物語の展開の仕方を大衆的な商業アニメーション映画にも導入してしまった点は、評価していい。それをしないで、物語を「論理的整合性やストーリーラインの原則に照らし合わせることは愚の骨頂」(樋口真嗣)だ。叶精二氏は「ポニョ」を「画期的な快作」として、「高次の表現を開拓している」宮崎駿を絶賛しているが、彼のような見識の持ち主はメディア芸術祭の審査委員にはいなかったのだろうか。

そのラディカル(根源的・先進的)な表現と物語展開において、「ポニョ」こそ受賞に相応しい作品であると確信する。今年度の受賞作は、昨年度同様おもしろい作品が多いかもしれない、そして優れた作品も多いことだろう、しかし、万人受けする内容重視の観点からでは見過ごしてしまう作品も必ずあること、そういう作品こそ公的に評価されるべきであることは、審査委員の方々には自覚してもらいたい。確かにまだ昨年度の受賞作品の傾向しか分析できていない段階でこういうことを言うのは勇み足だろうが、恐らく当たっていると思う。

ほとんど恨み節のようになってしまったが、誰かが声をあげなければならないだろう。
「ポニョ」が好きとか嫌いとかいう個人的な趣味の問題はどうでもいい。アニメーション関係者に、驚くべきアニメーションの傑作として評価してほしいのだ。もしそれができなければ、日本のアニメーションの未来は暗い。

ボルヘス『伝奇集』

2008-12-11 02:39:06 | 文学
ボルヘスは好きな作家なのですが、「好き」と言いながら、実は『不死の人』(白水Uブックス)と『砂の本』(集英社文庫)しか読んだことがありませんでした。でもボルヘスは他に『ブロディーの報告書』とこの『伝奇集』しか小説(集)は書いていないんですよね(「汚辱の世界史」は『砂の本』に収録)。

さて、『伝奇集』は紛れもない傑作です。ぼくの今まで読んだ本の中でも、最高峰の傑作だと言えると思います。ラテンアメリカ文学だったらガルシア=マルケスかボルヘスか、なんて比較がありそうですが(ちょうどロシア文学でドストエフスキーかトルストイかという比較が昔からあるように)、甲乙付け難いですね。ただ、ボルヘスはガルシア=マルケスに比べて、読者をより選ぶかもしれない、とは思います。それと言うのも、ボルヘスのあのペダンチックな文章に辟易してしまう読者が少なからずいるだろうからです。実在するんだかしないんだか分からない、聞いたこともない学者の名前を続々とその短いテクストの中で披瀝されては、少々いらいらしてくるのも当然ではないか?しかし、これこそボルヘス文学の重要な特徴の一つで、このめくるめく列挙法は例えばエリアーデやキシュのある種のテクストでも見られる通り、読者をたまゆら眩暈させ、ほとんど幻想的な物語世界へ読者を拉しさってしまうのです。

ボルヘスのテクストは非常に知的で、探偵小説の体裁を借りた「死とコンパス」ですら、神学的な筋書きに沿って話が進みます。結末は探偵小説の枠組みから完全に離れて、なんとも形容し難い、死んだ後の次の生の話に収束します。この短編では後半シンメトリーな館が舞台になりますが、この着想はぼくにはとても興味深く思われ、これを題材にした小説を書きたくなってしまいました。題名は「ヤヌスの館」で、シンメトリーな館に潜入した一人の男が、最下層で自分自身と出会う、という話。この物語のくさぐさを考えるあまり、「死とコンパス」以降の小説を集中して読めなくなってしまったほどです。

ボルヘスの小説はどれも短いながらも、別の小説の産褥とも言うべき豊かな題材がこのように潜在しており、まるで後に生まれてくるだろう小説群の母であるようです。例えば、島田雅彦がいま朝日新聞に連載している小説に、記憶師と呼ばれるあらゆることを記憶している人物が登場しますが、それは恐らくボルヘスの「記憶の人・フネス」から採ったものでしょう。しかし、その記述はボルヘスの方が奇想に富み、優れているように思えます。「彼は一八八二年四月三十日の明け方の南の雲の形をおぼえており、それらを、追憶のなかにある、たった一度みたことのある皮表紙の本の大理石模様のデザインと比べることができた」のような文は、大変にボルヘスらしく、そして素直におもしろい。ボルヘス自身が、架空の書物の粗筋を述べたりそれを批評したりしていて、小説の奇抜な着想を惜しげもなく披露しているようです。

「砂の本」でも見られた架空の書物は、『伝奇集』でも「ハーバート・クエインの作品の検討」の中に見られます。ところで前者は始まりも終わりもない書物、後者は出来事の様々な可能性を並行して描いた書物に言及しており、これらの実在はほとんど考えられないことですが、しかしそれはボルヘスがこれらを書いた当時の話であって、現在では恐らくハイパーテキストによって実現が可能、もしくは限りなく可能に近い状態にあると思われます。実際、ガルコフスキーの『果てしない袋小路』はインターネット上にばら撒かれたテクスト群の集積、見えないテクストへの註釈の塊であり、そこには並列的な世界が拡がるばかりです。

他にも、奇想に溢れた抜群に興をそそる作品が多い『伝奇集』ですが、一つ一つを解説していくことはできないので、いっそこの辺でやめておきましょう。それにしても、今日は文学的なブログになったなあ。

修士論文間に合わず・・・!

2008-12-10 01:41:35 | お仕事・勉強など
修士論文の提出が明日(もう今日だけど)に迫りました。
しかし、間に合いませんでした。

去年も今年も具合が悪くて、テーマにしている事柄のかなりの部分を全然調べていなかったので、10月から書き始めては無理だったのですね。

体の調子は薬を変えた影響で9月から回復し、勉強を妨げるものはなくなったはずなのですが、どういうわけか気力と集中力がなく、のんべんだらりとした日々を送ってまいりました。

それでも、現在のところ5万字弱は書き上げたので、まあがんばった方だと思います。
それにしても我ながら驚くべきは、5万字(原稿用紙120枚)も書いておいて、いまだ本論に突入していないということです。先行研究とその考察でほとんどの部分が占められています。論文はいったいどうなってしまうのか?肝心の自分の分析の部分を膨らませることができるのか?このままだと相当アンバランスな論文に仕上がりそうだがそれでいいのか?…神のみぞ知る、というやつですね。ちがうか。

なにはともあれ、修士論文は3月までには書き上げてしまおうと思っています。だらだらと延ばしていては、結局、ぎりぎりになってしまいますから。適宜、読みたい小説を読みながら、少しずつ書いていこうと思います。

カレンダーを買う

2008-12-07 22:10:11 | お出かけ
今年も残り少なくなり、来年のカレンダーを買いに行きました。
吉祥寺のユザワヤへ。
去年もここで購入しました。ここは一般の書店などに比べて種類が豊富だし(どうでもいいけどいま右手が痺れていてキーボードを打つのがつらい…)、また実際にぺらぺらとめくって中身を見ることができるので、ありがたいのです。ビニールかなんかに入っていて、表紙しか見られないお店もけっこうあるんですよね。

ぼくは去年初めて自らカレンダーを買いに行き(それまでは家族がどこかのお店からもらっていたカレンダーで済ませていたのです)、その種類の多さに驚いたものです。それで、カレンダー選びは意外とおもしろいことに気が付いて、実は今年もひそかに楽しみにしていたのでした。

自分の部屋に掛けるものがほしいので、そんなに大きいものではなく、それに数字だけのものでもなく、毎月違った絵が楽しめるものがよかったのですが、案外期待しているものは見つからないものです。また前月と来月分が一緒に今月のカレンダーに掲載されているもの、というとかなり少なくなります。アイドルのカレンダーというものがありますが、そういうのには興味がないしまた大抵大きすぎます。大自然の写真のカレンダーも大きいことがほとんどです。

いまぼくの部屋にかかっているのは花の絵をベースにしたカレンダーで、カレンダー表と絵の部分が分かれているのではなく(普通は上半分に絵または写真、下半分にその月のカレンダー表がありますね)、カレンダー表の背景として絵が描かれ、また毎月その花が違っているのはもちろん、紙の色もそれぞれです。今月は薄い緑色になんてんの実が水彩で描かれています。

でも今年はもっと絵を楽しみたいなあと思っていて、絵が独立しているカレンダーを探していたのですが、ようやく見つけました。それは、むかし絵本で見た絵が載っているカレンダーでした。作家の名前は忘れてしまいましたが(そのカレンダーに書いてありますが)、14匹の可愛らしいねずみが出てくる絵本です。小さい頃に読んだ方も大勢いるのではないでしょうか。毎月の絵も多種多様で、季節感をよく表していて、これに即決。来年がねずみ年でないのだけが無念。

カレンダーには本当に色々な種類があるので、気に入ったものを見つけるのを年末の楽しみにしてもいいかもしれませんね。

バルザック『知られざる傑作』

2008-12-06 00:31:31 | 文学
予想に反し、驚くほどつまらない短編集。

掉尾を飾る表題作「知られざる傑作」がようやく読み応えのある作品ですが、それを除けば、どうしてこんなものが書かれなければならなかったのか理解に苦しむ小説ばかり。こんなことを言うとバルザックファンから怒られてしまいそうですが、一般の短編小説にしばしば見られるプロットの妙もないしオチも弱い。「ざくろ屋敷」に至ってはそのオチすら全然ない。別にオチがあればいいとか、プロットに捻りが効いていればいいとかいうのではないですが、もしそれらがないなら他のところで勝負して欲しいのに、何も目立ったものがない。最初は延々とざくろ屋敷の描写に費やされ、ここは退屈極まりない。屋敷の構造や周囲の自然の有様を事細かに説明してみせるばかりで、類稀な比喩があるわけでも、耳目を引くエピソードが語られるわけでもなく、どこかの教室で無味乾燥な棒読みをひたすら聞かされている気分になります。

中盤から話が進展しますが、それもただ若い母親が亡くなって、子供を残す哀れとその子供の成長が淡々と描写されるのみで、何も目新しいものはありません。ストーリーが単調なのはまあいいとしても、胸に迫るような描写がないのが残念でなりません。

短編小説らしくプロットに捻りを効かせている「恐怖時代の一挿話」は、この短編集の中ではましな方ですが、最後の驚きに至るまでの過程が長すぎる。ページ的には短いのですが、最後の驚きを生かせるような伏線にもっと気を配るべきなのに、別のところにページが余計に割かれているような気がします。バルザックに小説の結構を説くほどぼくは身の程知らずではないつもりですが(仏陀に教えを説くというやつですね)、どうもバランスが悪いように思えます。また、最初の訳注で結末の種明かしを既にしてしまっているのは、いかがなものでしょうか。概してこの本(岩波文庫)の訳注は少し詳しすぎるようで、普通の読者にとってはほとんどが不要なものでしょう。

「ことづけ」は一見ユーモア短編のようで、特に最初と最後はそうなのだが、中盤は緊張感があり、小説のトーンが一様ではなくはっきりしない。何より、「ああ、死んじゃいやよ、あなたは!」という結びの文句に収束するような物語になっていない。死んだ男のことづけを頼まれた「私」がそれを婦人に知らせるという話で、もちろんこれを聞けば「死んじゃいやよ、あなたは!」という読者の叫びになるのだろうが、しかしこんなありふれた話がなぜわざわざ語られなければならないのか?軽妙に語られていればユーモア短編として楽しめるが、そうもなっていない。もし「死んじゃいやよ、あなたは!」で終わらせたいのなら、こういうありふれた物語ではなく、意外な、驚きをもって迎えられる話でなければ意味がないはずだ。

「沙漠の情熱」もその意味で「ことづけ」と似ている。これは、獣を調教する見世物について、獣があれだけ調教師になつくのには秘密がある、という打ち明け話が小説のベースになる。ところが、小説を読んでゆくと、そこには何の秘密もありはしないことが分かる。ただ、要するに両者(獣と人間)が理解し合えば調教も可能だ、ということなのだ。まるで肩透かしを食ったようになり、そしてこの気持ちが結局最後まで続くことになる。最後というのはこの小説の最後ではなく、この短編集の最後、「知られざる傑作」までのことだ。「沙漠の情熱」は巻頭に置かれている。

「知られざる傑作」はなかなか優れている。「芸術の使命は自然を模写することではない、自然を表現することだ」という信念を持っている画家フレンホーフェルの物語で、彼は絵画というものはただ対象を模倣するのではなく、そこに生命力も付与しなければならないと考えている。その信念の下、彼は一枚の女性の絵を描いているのだが、それは他人の目から見れば凡そ女性の姿をしていなかった、という話。結局、理想を達成できなかったことが分かった画家は、自殺してしまう。芸術を自然の模倣という呪縛から解き放とうとしているところは、ミメーシス論を念頭に置くと、その重大さが分かる。結局、その試みは小説では失敗に終わったわけだが、現実世界では、「模倣」というくびきから芸術とミメーシスを解放することができた。芸術が単なる自然の模倣ではないことはもはや誰の目にも明らかだろう。しかし、20世紀の芸術が果たしてバルザック(フレンホーフェル)の想定した芸術かというと、そうではないかもしれない。そこには「生命の過剰」が現れていなくてはならないからだ。

ところで、フレンホーフェルの絵が果たして失敗作だったかどうかは、判断が分かれるところかもしれない。それは別の画家から見ればなんでもないものだったが、よく目を凝らせば確かに女性の足、生きている足を見出すことができた。結局、フレンホーフェル本人によって、「なんにもない」とみなされてしまうのだが、しかしそれは確実に芸術の神秘に迫った絵ではなかったか。

とまあ、こんなふうに色々なことを考えさせられてしまう、滋味深い作品だ。

DoGA・CGアニメコンテスト傑作選Ⅱ・Ⅲ G・B

2008-12-04 00:51:10 | アニメーション
DVDで出ているDoGAのCGアニメコンテスト傑作選、二巻(以下「G」と表記)と三巻(「B」と表記)を観ました。

一巻のときにも書きましたが、玉石混交です。気になった作品を幾つかピックアップ。
Gでは、宍戸幸次郎という監督の「nakedyouth」という作品に目を引かれました。実写がベースになっている映像で、その点で新海誠と制作方法が基本的に同じです。実写と見紛うばかりの映像には正直驚きました。ただ、新海誠のようなアレンジがあまり感じられないのと、人物がそのようなリアルな背景から浮いてしまっているところは、少し残念でもあります。それでも、抒情的な映像と演出は評価されるべきで、事実、この作品は多くの受賞歴もあり、海外での評価も高いそうです。ちなみに、この作品はどうやらゲイを主題にしているようで、妖しげな雰囲気が漂っています。

Gには観たことのある作品が存外多く、新鮮味はそれほどありませんでした。一方、Bは前半が秀作揃い。最初の4本を観たとき、この巻だけ異様にレベルが高いぞ、とうなりました。まあ、そこから失速していくので、平均値は他のと大体同じくらいになってしまうのですが。特に、木霊の「MY HOME」と井端義秀の…え~と、題名を忘れてしまった…作品が、注目に値します。

この井端という人の作品は、絵も下手だし、プロットにも問題ありで、総合的な完成度は必ずしも高くないのですが、映像表現とそれを支えるアイデアが抜群に優れています。漫画の形式をそのままアニメーションにしたような作品なのですが、漫画のコマの中を登場人物が駆け、ページが繰られるとページを突き破って飛び出てきたりします。手塚治虫の実験アニメ「おんぼろフィルム」を少し想起させるところがありますが、はっきり言ってそれよりも格段に優れています。また、見せ場では美麗な映像を見せるなど、演出のイロハも分かっている様子。彼は現在はプロになり、あの『やさいのようせい』の脚本・演出などを担当したようです。この人、才能あります。

で、Bの巻頭を飾ったのは木霊の「MY HOME」。実はぼく、このアニメーションはメディア芸術祭で観たことがあって、そのときもこれはとてもいい作品だと思っていたのですが、それから3年くらい経ち、すっかり忘れていました。今回、この作品に再会できて、本当に嬉しいです。と同時に、これほどの作品を忘れていたことに、我ながら恥かしくなります。これは、大変な傑作です。2005年度のDoGAのコンテストではグランプリですし、何より巻頭作品であることから、DoGAから非常に評価されていることが分かります。ちなみに、R(第一巻)の巻頭作品は新海誠の「彼女と彼女の猫」、Gは吉浦康裕の「水のコトバ」ですから、巻頭を飾るのがいかにすごいかが明らかですね。

台詞がなく、全編に歌が流れている作品なのですが、ストーリーははっきりしていてとても分かりやすいです。社会から脱落したような3人の中年の男性が、自分の特技(といっても二流の特技)を活かして家を建設してしまう、という話。ところがその家は取り壊されてしまい、三人は気落ちしますが、すぐに次の目標を見つけて、動き出す…
ヘミングウェイの『老人と海』に匹敵する、と言ったらいくらなんでも褒めすぎでしょうか。しかし、このアニメーションは、諦めない気持ち、夢、自分とは何者か、といった事柄を、決して押し付けがましくなく自然に観るものに訴えかけ考えさせるような作品になっており、しかもそれらには収まることのないもっと大きなものを感じさせてくれ、最後のシーンは涙すら誘う、感動的な結末になっています。もはや名作と言ってもいい。R、G、Bの中で、随一の出来ではないでしょうか。

ゴーゴリ『死せる魂』

2008-12-03 00:46:07 | 文学
予告どおり、『死せる魂』について。

大学の授業でこの小説を最初から読んでいます。しかも去年から。精読なので、なかなか進みません。一回の授業で読めるのは1、2ページほど。もちろん日本語では既読ですが、こうしてゆっくり読んでゆくと、ゴーゴリという作家は非常におもしろいな、ということに気付きます。

さて、『死せる魂』は原題では「ミョールトブィエ・ドゥーシ」と言います。「ドゥーシ」が「魂」の意味です。ところがこの単語には他にも「農奴」という意味があります。このことは、ロシア語を知っている人、あるいはロシア文学に詳しい人なら誰でも知っていることです。ところで『死せる魂』はまさにこの「農奴」が問題になっている小説です。ある町に突然やって来たチチコフという男が、地主たちから死んだ農奴(死せる農奴)を買い付けていく。その目的は一体なんなのか?というのがこの小説の大まかなストーリー。「じゃあ「死せる農奴」というのが正しい訳なんじゃないの?「死せる魂」なんて、かっこつけたかっただけじゃない?」なんて意見が聞こえてきそうですが、そうではないのです。

作者のゴーゴリは、この小説を『新曲』ばりの三部構成で構想していたと言います。第一部が、この現存している『死せる魂』。第二部はほとんどが焼失してしまい、断片しか残っていません(実は晩年に狂乱したゴーゴリ自身がペチカに原稿を投げ入れた)。この小説でゴーゴリは「ロシア」を描こうとしたのだと言います。第一部ではチチコフの堕落を(「地獄」)、第二部では改心するチチコフを(「煉獄」)、そして第三部で真っ当な人間を(「天国」)を描こうとしたようです。つまり、「ロシアの魂」を描こうとしたのだと言えます。

死せる農奴を扱いながら、その奥で死せる魂とその復活を描出しようとしたわけです。その意味で、邦訳にはやはり「死せる魂」が相応しいとぼくは思います。恐らく原題には二重の意味が込められているのでしょうが、日本語ではそれを表現できないので、より本質的な意味である「魂」を選択したのですね。

さて、『死せる魂』に限らずゴーゴリの文章は非常におもしろいです。日本語では読み飛ばしてしまいそうですが、原語でじっくり読むと、その文体がいかに奇妙か分かります。例えばナボコフの挙げている「脱線」の効果。ゴーゴリの文章はしばしば本筋から脱線し、ストーリーとは直接関係しない細部の描写に執拗にこだわることがあります。細部を描写しながら、その細部が発展して別の出来事が展開することもあります。他にも、こんなのがあります。「彼の出会ったのは、開け放されたドアと老婆であり、彼女は「こちらへどうぞ!」と言った」。ドアと老婆が対等な関係で並置されているのが分かると思いますが、こういうところで滑稽な効果を狙っているわけですね。

また、『鼻』などは、奇妙奇天烈な出来事をかしこまって話しているような可笑しみがあり、文章を読んでいるだけで楽しめます。これはなかなか翻訳では味わえないかもしれませんが、それでもじっくり読むとなかなか味わい深いと思います。

ぼくは、長い間、ゴーゴリはその作品よりも彼自身の人生の方がおもしろい、と思っていたのですが、作品も十分おもしろいぞ、と考え直しました。多くの人には、せめてゴーリキイとの区別くらいは付けて欲しいですね…

CLAMP『CLOVER』

2008-12-02 01:47:47 | 漫画
一気読みしました。
全四巻ですが、構想は第六巻くらいまであるそうですね。ウィキペディアによると。確かに物語には未完の雰囲気があります。きちんと閉じられてない、というか。

でも、物語が最初に戻らない、つまりちゃんとした枠組みがない話というのは個人的に好きです。たとえ構想では、最初の話に戻るのであっても、ぼくはこういう終わり方の方がいいと思います。

退役軍人が、ある少女の護送を国家から依頼され、敵の追っ手を逃れながら、目的地である妖精遊園地(フェアリーパーク)に向かいます。実は彼女には絶大な力があり…

こういう話が二巻まで。彼女はある歌手と約束をしていて、その歌手というのはその退役軍人の元恋人。「元」というのは、既に死んでしまったから。この歌手の話が展開されるのが第三巻。最終巻は、護送を手伝った退役軍人の友人の物語。どちらも第一巻の冒頭に至るまでの過去の話。

この歌手の歌が重要な役割を果たしていて、漫画の中でその歌詞の一節がほとんど常にと言っていいほど挿入されます。物語の流れの中に歌詞を置くことで、その様々な文脈に応じて歌詞の意味も移ろいます。こういう技法はとても上手いですね。そして、コマ割りも詩に合わせているかのように、詩的で、空白(余白)を多用します。そして影。

また、非常に細かい描線が特徴的。機械が多く出てきますが、それらの描写がとても緻密。クライマックスシーンでは、ペンで引いただけの線が何本もうなりを上げ、建物を破壊し、人体を貫きます。

印象に残っているシーンは幾つかありますが、特に非凡だなと思ったのは、歌手が「ア・イ・シ・テ・ル」と言う口の動きを、ひとコマに一言ずつ描いてみせるところ。これは、ナボコフの名作『ロリータ』の冒頭を思い出させます(ちなみに『ロリータ』をやらしい小説だと思っている人が少なからずいるようですが、全く違います)。

二巻の最後で、結局この事件はどうなったのか、少女の生存は?と気になることはあるのですが(任務完了の暁に消えるはずのマークが消えていないのは、まだ完了していないから?)、このままで終わってもいいな、とぼくは思います。ちょうど半分の分量で本筋は全部語り終え、残りの半分でそれに至るまでの歴史をなぞっていく、という手法はなかなか切なくてよいです。特に第三巻が好き。

それにしても、純粋に物語を楽しみたいのなら、別に小説を読まなくたって構わないんだな、と思いました。では、小説の存在意義とはなんだ?というと、やっぱりそれは「言葉」を拠り所にするしかないのだと思います。

そういえば、今日、ジャック・フィニイの別の小説を買いました。彼もストーリーテリングが巧みなので、読むのが楽しみです。

ちなみに、この漫画のアニメーションを先ほど見ました。ミュージッククリップのような作品ですね。監督が高坂希太郎なのに吃驚。しかも美術は山本二三で制作はマッドハウス。けっこう豪華ですね。

CLANNAD 劇場版

2008-12-01 00:44:22 | アニメーション
CLANNADの劇場版を観ました。これは、たぶん既に誰かが絶対に言っているとは思うのですが、あえて言わせてもらうと、「あしたのCLANNAD」です。『あしたのジョー』とかけているわけですが、どういうことかというと、監督がどちらも出崎統なんですね。で、このクラナドは、出崎色が出すぎ。あの有名な劇画タッチの止め絵の多用など、いかにも出崎統で、クラナドが出崎色に塗り込められている…。やさぐれている朋也なんかは、ジョーかよっ!とツッコミたくなるほど。

ところで、朋也って聖司君に似ている(顔が)と思っているのはぼくだけでしょうか?あの前髪に聖司君を感じてしまうのですが。

劇場版はテレビ版と基本は同じなのですが、でもかなり違ってもいて、例えば演劇部再結成の過程とか、芝居をする時期とか。ことみなどの主要キャラの登場シーンも限られている。特にことみは演劇部に入らず、なぜか合唱部でタクトを振っている。演劇部に入るのは渚と朋也の他には春原だけ。

芝居をし終えた渚に、いきなり抱きついて「好きだ」と告白する朋也には、感動するというより笑ってしまいました。ちょっと急すぎるだろ、と。幻想世界は朋也と渚の夢ということになっていて、渚が自分と同じ夢を見ていたことを知った朋也は感極まってしまって告白するわけですが、ちょっとなあ。

それと、肝心な絵ですが、出来が悪いなあ、と思ってしまいました。動きがどうこうではなく、そもそものデザインがよくない。キャラクターデザインが悪いのかどうかよく分からないのですが、ちょっと下手さがありますよね。洗練されてない、というか。特に女子。少なくとも、渚は京都アニメーション版の方がかわいいですね。

テレビでは、先週、急展開しましたね。急展開というか、一気に時間が流れたというか。もう卒業しちゃったよ!と。病気の渚が死んでしまったら、ぼくはもう本当に泣いてしまいますよ。風子のエピソードで涙をこぼしたぼくです、渚の死には耐えられそうもありません。でももしそうなったら、力石のときのように、現実世界でお通夜をしたいです。しかしこれから渚、どうなるのでしょうか。

ヒロインの病気、死、といった設定や筋書きは、いかにもお涙頂戴風で、しかも陳腐なのですが、やっぱり演出で全てが決定されますね。どんなに陳腐でも、いいものはいいんだ。死や病気をたくさん道具として用いるのはタブーなのだろうと思いますし、それはあまりにも安易でまた馬鹿馬鹿しいことでもあるのですが、しかしその死や病気をきっちりと描く、掘り下げて描くことで、単なる「便利な道具」という立場を返上できるんですね。テレビの話です。

ところで、今日はゴーゴリの『死せる魂』について書こうと思ったのですが、いきなり脱線してしまいました。いま授業でロシア語で読んでいるところなんですよね。よし、明日か明後日に書こう。