Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

篤姫が最終回

2008-12-15 23:52:00 | テレビ
最終回だった『篤姫』、見ました。平均視聴率は1996年の『秀吉』以来の高さだったそうです。『秀吉』は30%もあったそうです。『篤姫』は30%の大台にはついに達しませんでしたが、最後の一ヶ月はそれに迫る勢いでした。今回の最終回も28%台。

それはそれとして、一年間、毎週欠かさず見ていましたが、おもしろかったです。特に最終回は、万感の思いと言うのでしょうか、見ていて泣きそうになるシーンが二箇所ありました。一つ目は、母娘の対面。離れ離れになり、もう二度と会うことは叶わないと思われた人たちに再び会えるシーン。なんというか、ぐっときましたね。二つ目は、ラストの篤姫がゆっくりと瞳を閉じるシーン。ここは、思いがけず、本当に思いがけず、嗚咽が洩れそうになりました。こんなことってあるんですねえ。

視聴率もよかったし、おもしろいと評判なので、今回の大河ドラマが特にいい出来だったと思われる方もいらっしゃるでしょうが、でも個人的にはそれほど突出していたとは思っていません。前田利家や山内一豊(漢字はこれで正しいの?)や義経は篤姫と同じくらいおもしろかったです。特に『義経』ではカメラが凝っていて、場面場面が一幅の絵のようで、光と影のコントラストが強調されている、美しいカットの連続でした。だから、どうして今回だけこんなに評判になったのか、ぼくにはよく分かりません。女性の心をつかんだ、なんて言われ方をよくしますけれど、そうなのでしょうか…。

けれどそうは言っても、やっぱりおもしろいことには変わりありませんでした。本当に数奇な運命だったのだなあ、と感慨が残ります。それに、和宮も似たような人生を送ったのですね。その運命における偶然の対比も興味深かったです(演出で対比させているのではなく、もともとの運命が対比的だということ)。

話は戻り、1996年の『秀吉』について。これは竹中直人のものすごいエネルギッシュな演技がとにかく強烈で、非常に楽しめましたね。
話は進み、来年の大河『天地人』について。またしても武田と上杉の時代のようですが、それは去年やったばっかじゃないか!と思っている人はたくさんいるはず。あの時代はどうも暗くて田舎臭くて、ちょっとなあ。信長と秀吉が活躍する少し前なんですよね。その泥臭さを不潔だと思われないように演出して欲しいです。
更に次の大河は『竜馬伝』。あの福山雅春が主演。竜馬って感じじゃないけど、大丈夫かなあ。

『私のなかのチェーホフ』

2008-12-15 02:05:19 | 文学
「書きたいことがありすぎてまとまらないんだ」。

今のぼくの心境です。なおこの台詞の出処が分かった人はなかなかのものです。是非お友達になりたいですね…

それはともかく、何から書こうかまだ迷っています。『篤姫』の最終回のことも書きたいし、ジブリ汗まみれにも言及したいし、題名に挙げた『私のなかのチェーホフ』についても、そしてタブッキの小説についても書きたいのです。

でもとにかくこの題名通りの文章を書くことにします。後のことは完全にはしょり、別の日に回しましょう。

リジヤ・アヴィーロワ『私のなかのチェーホフ』(群像社、2005)。
ぼくはこの本を読んで有頂天になりました。なんておもしろいんだ!きのう、ジョージ・オーウェルの『動物農場』の感想で「途中で一度も飽きずにこんなにもすらすらと読めたのは、久しぶりです」と書きましたが、今の気分はこうです。「こんなにもぐいぐい引き込まれながら読めたのは、久しぶりです」。

この本にはアヴィーロワの短編が3つと、『かもめ』初演についてのアヴィーロワの短文と、チェーホフからアヴィーロワに寄せた手紙が何通かと、そして「私のなかのチェーホフ」と題された長い回想記が収められています。圧倒的におもしろいのはこの回想記。ぼくは実を言うとチェーホフに関してはかなり詳しくて、関連文献をたくさん読んでいるので、当然この回想記のことも、どういう内容なのかも知っているのですが、恥ずかしながら今まで読む機会を得ず、今日こうして初めて読むことになったのですが、こんなにおもしろいとは予想していませんでした。内容はまさしく「チェーホフとの恋」が綴られており、チェーホフとの馴れ初め(夫婦や恋人でない場合にもこの言葉を使っていいのかな)から彼の死の報に接した頃までのことが事細かにエピソード豊かに記されており、チェーホフ・ファン垂涎の回想記です。ところが解説にもありますが、研究者の間ではこの回想記は眉唾物だと断じられていて、というのもアヴィーロワが言うには彼女がチェーホフに恋していたのみならず、チェーホフもまた彼女に恋していたということになるのですが、そんなのは彼女の勝手な推測か創作に過ぎない、とみなされているのです。ぼくもこれまでは研究者がそう主張するのならそうなのかなあ、と漠然と思っていたのですが、この本を読んで、そんなもやもやした思いはすっかり消し飛んでしまいました。チェーホフの恋を信じきっているわけではないのですが、でもアヴィーロワが今まで言われてきたような自己顕示欲の強い女性だとは思えなくなりました。解説でも触れられているようにブーニンがアヴィーロワを支持していたことは有名ですが、ぼくもどちらかと言うとアヴィーロワ寄りです。

それにしても、この回想記は、チェーホフ全集を読破した人にのみ与えられる至福の書です。これまで知識としては知っていた色々なエピソードや短編小説が、この回想記ではまさにチェーホフとアヴィーロワの生活の中に息づいており、新しい生命を獲得しています。そうだ、今までは魚拓でしか知らなかった魚を、水の中に見出したようなものです。本当にうれしくなりました!あの有名な『かもめ』と仮面舞踏会のエピソードをアヴィーロワ自らの回想記で読めるなんて、幸せだあ。チェーホフにある程度肩入れしている人でなければ、このような幸福な気持ちにはなれないでしょう。だから、この本はチェーホフ初心者には薦めません。翻訳されているほとんどの作品や手紙に目を通した人こそが最良の読者です。

それにしても、トルストイがさりげなく登場して、入院しているチェーホフが面会謝絶でないとアヴィーロワから聞かされると、「明日にでも見舞いに行こう」と告げるシーンなど、ぼくは声に出して笑ってしまいました。本当に声に出して!なんで笑ったのか?たぶん、トルストイのそのあまりにもさりげない登場の仕方(「かのトルストイが」などと持ち上げたりしない)や、面会謝絶でないと知ればすぐに「明日にでも見舞いに行こう」と言うその子供のような素朴さが、大トルストイというイメージとのギャップの大きさゆえに、おもしろく感じてしまったのだと思います。

なんだか、チェーホフやアヴィーロワのことを知らない人にとっては、ぼくのここまでの文章はちんぷんかんぷんかもしれませんね。二人の関係すらぼくはまだ書いていないのですから。でも、事実説明をする気にはなれないんです。ただ、読後の余韻に浸っていたくて…たゆたっていたい…

アヴィーロワの短編小説にもほんの少しだけ言及しておきます。とてもチェーホフ的です。特に最初の「不慣れ」という小説は。人間の感情の機微の描き方、文章、構成、チェーホフの小説だと言われても、知らなければ信じてしまいそうになります。もっとも、次の「忘れられた手紙」はそうではありません。最後の「権力」にはチェーホフの影響を感じます。いずれも一定以上の水準には達しているようにぼくには思われます。

ちなみに、『私のなかのチェーホフ』という本は過去に何冊も出ていて、この本の出版された同じ年(2005年)にも刊行されています。つまり、同じ内容の本が二冊ほとんど同時に世に出たという奇妙なことが起こったのです。これは、前年の2004年がチェーホフ没後100周年の記念の年であり、チェーホフ関連の本の刊行が相次いだことと関係しています。なお、その本の題名は『チェーホフとの恋』。原題が『私の生活のなかのチェーホフ』と言うので、かなりの意訳ということになりますね。ぼくはどちらも持っています。片方あればいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし群像社版にはアヴィーロワの小説が同時収録されているし、『チェーホフとの恋』は注が詳しく、また独自の解説があります。二つとも欲しかったのです。…というのは半分ホントで半分ウソ。実のところは、題名が違うものだから、別の本だと思って二冊とも購入してしまったのでした。