Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

高畑勲講演会(ジブリ・レイアウト展にて)

2008-09-13 01:54:36 | お出かけ
9月12日、高畑勲の講演会に行ってまいりました。
2時開始、1時30分開場のところ、1時少し前に講堂に到着。
実際には、1時20分頃に開場。順番は前から6番目でした。

会場に入り、席について周りを見渡してみると、そんなにお客が入っていない。高畑さんも人気ないなあなんて思って、時計ばかり見ていたら、いつの間にかかなり人が入っている。空いているのは関係者席だけといった感じ。開始時間が迫るにつれ、ますます聴衆の数は増えていく。ついには立ち見ならぬ座り見まで出現。それも大勢。2時になる頃には会場は超超満員。立錐の余地もないほど、と言ったらさすがに大袈裟か。

開始直前にアナウンスが入り、今回の講演会には1万人の応募が殺到したらしい。いま講堂にいるのは大体150人~200人くらいで、しかもペアチケットなので、応募したのは100人くらいか。とすると、実に100倍ですよ、倍率が!なんとなんと!今回ここまで来れた人は、相当運がいいってことだ。もし、せっかく当選したのに今日来られなくなった人がいたとしたら、その人はツイてない。

さて、高畑勲の今回の講演のテーマは、「アニメーションにおける空間表現について」。実際に何を話したのかというと、画面の縦方向(奥行き)の動き、についてだった。ところでレイアウト展の図録に藤森照信さんという建築家の文章が載せられているが、そこでは、こんなことが述べられている。宮崎駿に聞いた話では、ディズニーのアニメーションは奥行きのある動きに乏しく、横方向の動きが多い、というのだ。だからディズニーのアニメーションは「子供っぽいオモチャじみた動き」に映る、と藤森さんは言うのだが、高畑勲はこの話を導入にする。

ディズニーでもそうだったように、昔の日本のアニメ(初期の東映動画の時代を想定している)でも、奥行きのある動きは珍しかったらしい。それを、高畑勲は『ハイジ』などで打開しようとしたのだそうだ。また、時代は前後するが、『ホルス』でもそういった動きの設計は試みられた。しかしながら、それはまだ試行錯誤の時代で、画面向こうから手前までホルスが走ってくるとして、何歩で駆けてくるか、という基本的な部分が疎かになっている。ほんの数歩で画面手前まで駆けてきてしまったりするのだ。けれどもこういった奥行きのある画面作りは斬新で、それが後々の作品に生かされてくる。

高畑勲が『やぶにらみの暴君』に多大な影響を受けたことは有名だが、その奥行きのある画面設計にも驚いたようだ。ちなみに、今回の講演では多くの映像を適宜流しながらの解説、となったが、このとき『王と鳥』と共に、なんと『やぶにらみの暴君』をスクリーンに映し出してしまった!すごいことだ。『やぶにらみの暴君』はいまや伝説的なアニメーションなのである。で、この映像の元ネタは何かというと、海外で入手した海賊版らしい。いいのか、高畑勲。

他にも、人物の顔を描くとき、西洋では顔が立体的なので、どうしても斜めの顔を描いてしまうのに対し、日本では顔が平面的なので、正面が多くなる、という話をしていた。日本では正面を向いた顔が本当に多いらしく、ニャロメなどはどう考えてもそれしかありえない顔で(人間じゃないけど)、アニメになったとき、演出上いろいろ考えた、というようなことを言っていた。鉄腕アトムにしたって、あの頭は構造がおかしい(中味じゃないです)。

ところで、高畑勲はディズニー式の、横方向の動きには必ずしも否定的ではない。高畑さんが傑作と称賛する『ピノキオ』の映像を見たが、これはすごい。正直驚いた。1941年に公開されたそうだから、戦中の映画である。なにがすごいって、見てもらわないと分からないが、とにかく迫力がすごい。水の作画、クジラの勢いなど、『ポニョ』を思い出してしまった。これが、だいたい横方向の動きなのだが(縦方向もあるにはあるが少ない)、充分臨場感はある。言い忘れたが、縦方向(奥行き)の動きは、観客に臨場感を持ってもらうのに寄与するのだという。横方向の動きは、客観視される。

『ピノキオ』にも奥行きのあるシーンがあって、これがハンパない。パない。朝、鐘の見えている画面を映しているカメラがだんだん下に降りていって、街並みを映し出すのだが、さらにズームしていって、カメラを横に振り、まだズームしていく。これは高畑勲も解説していた通りマルチプレーンのなせる業なのだが、これほどその機能を駆使したシーンも珍しいのではないか。だが、一般の観客からの受けはよくなかったらしく、ディズニーは以後奥行きのある動きを見せなくなっていったそうだ。

それに対して、日本は奥行きのある動きを見せることに注力するようになり、またハリウッドなども、臨場感のある画面作りを展開させていった。つまり、ディズニーは時代から取り残されていったということになる。では、ディズニーから臨場感が失われたのかというと、そうではなく、ディズニーランドがその役割を果たしたのだと高畑勲は言う。アニメーションで臨場感を得るのではなく、仮想と現実の狭間の空間で臨場感を得る。それはそれで一つの手段だけれど、ディズニーアニメがつまらなくなった、と言われるのには、ここらへんにも理由があるのかもしれない。

さて、レイアウト展について。

書こうと思ったけど、もうだいぶ長い文章を書いているので、これはまた明日書こうと思う。

手紙(アンジェラ・アキ)

2008-09-11 00:51:14 | アニメーション
現在NHKで放送されている「みんなのうた」。
アンジェラ・アキの作詞・作曲(もちろん歌も)の「手紙」は、けっこういい。
ちなみにアニメーションは白組が担当していますが、絵が基本的に動かないので、これはアニメーションと呼んでいいのかどうか…。なお、イラストは少女漫画風のタッチで(瞳の大きい少年が水彩画で描かれているみたい)、意表を突かれます。

歌は、15歳の「ぼく」が大人の「ぼく」に宛てて書いた手紙の前半と、大人の「ぼく」が15歳の「ぼく」に宛てて書いた手紙の後半とに分かれます。このうち、少年である「ぼく」が未来の自分に宛ててメッセージを送ることは、よく見られる発想ですが、大人の「ぼく」が過去の15歳の自分にメッセージを送ることは、比較的珍しい気がします。

大人である現在の自分が過去の自分にメッセージを送ること。このことから、ぼくは一つの小説を思い出しました。新海誠『秒速5センチメートル』です。もちろん、『秒速』は新海誠監督のアニメーション映画ですが、監督自身がそれを基に小説化したことも知られています。この小説には、大人になった明里が過去を振り返る、次のような一節があります。

「(前略)あの日電車に閉じこめられていた彼に声をかけてあげることができるなら、と彼女は強く思った。もしそんなことができるのなら。
 大丈夫、あなたの恋人はずって待っているから。
 あなたがちゃんと会いに来てくれることを、その子はちゃんと知っているから。だからこわばった体から力を抜いて。どうか恋人との楽しい時間を想像してあげて。あなたたちはその後もう二度と会うことはないのだけれど、あの奇跡みたいな時間を、どうか大切なものとしていつまでも心の奥にとどめてあげて。」

明里は過去の自分にメッセージを伝えようとしているのではなく、過去の「彼」(貴樹)に向かって呼びかけています。それがアンジェラ・アキの歌とは違うところですけれど、似通っているのは確かなようです。

過去に向かって呼びかけるというのは、どういう心情なのでしょうか。未来へなら、分かる気がします。今とても辛くても、「未来の自分はどうですか?」と問うことで、元気でいてください、という願いが暗に込められている気がします。

翻って、過去の自分(あるいは友人・好きな人)に起こった出来事は、もう現在からは変えられません。そのときの気持ちを変えることもできません。そのようにあってください、と願うことはもうできません。それでも、過去は変えられなくても、「このような気持ちでいて」と願わずにいられません。「もっとあの人を信じて」とか「もっとあの人を大切にして」とか、願わずにはいられません。困難を目の前に控えている過去の自分を応援せずにはいられません。

でも、現在を肯定しているのとしていないのとでは、過去へのメッセージの内容も違ってきてしまうでしょう。その思い出と現在との繋がりも重要な要素であるはずです。場合によっては諦めが混じり、あるいは慰めが出てくることもあるでしょう。過去の自分にどういうメッセージを送るかによって、現在の自分が逆照射されるのです。そしてそれは、未来の自分への手紙にしても、同じことなのかもしれません。

拝啓。14歳の君へ。もっと学校生活を満喫してください。楽しいことを楽しいと認めてみてください。それはもう二度と帰らない日々で、最高の日々なのだから。

蟲師

2008-09-10 00:53:06 | 映画
大友克洋監督の『蟲師』を見ました。
原作の漫画は途中までしか読んでいませんでしたが、映画で使われたエピソードは既読。もっとも、ほとんど内容を覚えていませんでしたが。

原作はどこか漫画『ゲゲゲの鬼太郎』的で(怪奇現象を解き明かしてゆくところが)、読み終わるとじんわりとした余韻を残す作品が多いですが、映画ではホラー的な要素が加味されているように感じられました。途中、虹を探す男が出てきてからは、陽気な雰囲気になりますが、しかし随所に恐ろしさを刻印するようなシーンがありました。それと、原作にあったような余韻が薄れてしまっています。漫画はそこが見所だと思うので、映画化によってそういう部分が失われたことは残念です。

かなり尺が長く、131分だそうですが、少々退屈に感じられました。
また、いまいち意味がよく分からなかったです。初めにも書いたように、原作の内容をほとんど忘れてしまっているので、予備知識もなく、映画の中からしか情報を得られませんでしたが、「トコヤミ」(「常闇」?)と「ギンコ」(蟲)の関係など、把握し切れませんでした(だからラストの意味がいまいち…)。

あと、スペクタクルシーンが多いのかなと予想していましたが、案外少なかったです。ま、あんまり映像技術に頼ってもナンなので、それはそれでいいのですが。

恋がないと映画はできない、とでも言うように、恋のスパイスを少しだけまぶしている感もありますが、かえって不自然に感じられました。

概して、ちょっと地味な映画です。飛び抜けたものが何もない、というか。それが魅力だと言う人もいるかもしれませんが。

ぼくは、映画よりも漫画版の方が好きですね。

高校生クイズ

2008-09-09 02:46:53 | テレビ
この間「高校生クイズ」がやっていました。
この番組は小学生か中学生くらいの頃から毎年見ています。
例年だと21時開始だったんですが、今年は19時から。どうしてでしょう。
ちなみに、もっと以前は8月中にオンエアされていました。

今年の高校生クイズは例年と大幅に違っていました。いつもは知力と体力とがバランスよく備わっていなければ突破できないクイズが出題されていましたが、今年は、体力や運など「知」以外の要素を削ぎ落とした問題ばかりを出題。また、例年ならどこかへ旅をして自然に触れ合う機会が設けられるのですが、今年は全てスタジオで収録。総じて、より普通のクイズ番組に近づいたと言えます。

ただし、問題のレベルが非常に高い。素人の目からはかなりマニアックな問題が出題されていました。世界で三番目に高い山や、星座の形状から「御者座」を答えさせる問題など。他にも、「毳毳しい」の読み(正解=「けばけばしい」)とか、数学オリンピックで実際に出題された問題など。

高校生たちの正答率がかなり高くて驚いたんですが、早押しクイズを見ていて思いました。たぶん、問題のパターンというのがあって、彼らはそれを覚えているのだ、と。早押しだから、問題の本当に最初の部分を聞いただけで答える人がいるわけですが、ぼくからすれば、後半の問題がどのようになっているか、想像がつかないわけです。もちろん想像が可能なものもありましたが、「AはBですが、Cは何でしょう」みたいな出題の場合、彼らは「Aは」の部分を聞いただけで、「Dである」を答えてしまうのです。どうしてCが問われたのか、というと、やっぱりCというのは問われやすいからなんだと、そういうパターンだからなんだと思います。彼らはそのパターンを知っているわけです。

あと、星座の問題担当という人もいましたが、これは、クイズでは星座が問われやすいというある種のパターンを熟知していたからこその配役です。実際に、今年の高校生クイズでは、星座の問題が2題も出題されました。

問題の多くは雑学と呼べるものです。あるゲスト(東大生)が、こんな問題が解ければ東大になんか簡単に入れるよ、と言っていましたが、それは恐らく間違いで、こう言い換えなくてはならないでしょう、「こんな問題が解けたって、東大には入れないよ」と。

しかし、彼らの多くは学校の勉強もできるようで、開成や灘を始め、いわゆる偏差値の高い学校の生徒が参戦していました。純粋に数学の問題もあり(ちなみに解き方をオンエアしなかった)、偏差値がクイズの出来に反映されることもあったようです。

彼らは「頭が良い」と一般にはみなされるのでしょうが、それは、彼らがこういう問題を解けるからです。数学ができて、星座の知識もあって、漢字も読めるし国旗も分かるからです。でも、他の知識(要するに「勉強」とはされない知識)はあるのか、というと、それは分かりません。例えばアニメおたくは、アニメや声優、音楽などについて膨大な知識を持っているでしょうが、彼らは「頭が良い」とはみなされません。仮に持っている知識量が同じだとしても、その種類が異なれば、一方は「頭が良い」とみなされ、他方はそうとはみなされません。結局「頭のよさ」というものは「学力」に直結していて、「学力」というものは、あくまで「学校の勉強」のことだからです。知識がなくても非常に頭の回転の速い人がいますが、学校のテストが赤点ばかりなら、「頭が良い」とはなかなか認めてもらえないでしょう。

要するに、彼らは学校で習う事柄(及びその発展)が得意なわけです。社交術はゼロかもしれません。もちろん、それだって器用にこなす人がいるかもしれませんが。ただ、社会が「これができたら優秀だ」と決めている事柄を得意にしているというだけで、その人を「優秀だ」と持ち上げるのは、少しおかしい。それは限られた社会の枠内での論理であって、普遍的なものではありえません。そもそも「学力」の定義など普遍的でありえないのだとしたら、やっぱりそのことに常に懐疑心を抱いていた方がいいと思います。

テレビで高学歴者を持ち上げるタレントを見るにつけ、本当にそう思いますね。
ちょっと理屈っぽいことを書いてしまいましたが。
高校生クイズからはちょっと離れてしまいましたね。

ターミナル

2008-09-07 22:24:09 | 映画
テレビでやっていたので『ターミナル』見ました。
楽しめました。主人公の置かれた状況がとても滑稽で、こんな設定をよく考えたものだと感心。自分で工夫して色々なものを作ってしまうところも、「ありえないだろ」と思いつつ見ていましたが、いい。最初は皆から不審がられていたけど、最後には皆と家族のような関係になるという、おきまりの演出も、そうなる過程の描出が洗練されていて、引き込まれます。友人の恋や幹部の昇進などを挟み込みつつ、主人公の恋も並行して描いてゆくところもさすがに上手い。

ただ、主人公がニューヨークに行きたいと願っていた理由が、少し弱いかな、という気はしました。だから本当に終盤までは楽しめたんですが、最後の最後で物足りなさが残りました。

ところで、主人公はロシア語を喋ります。出身地は恐らく旧ソ連のどこか架空の国という設定になっているんだと思います。途中で、やはりスラヴ系の人物と主人公が話し合うシーンがありますが、そこで相手は「ニェ・ルースキイ」と言っていました。これは、「(おれは)ロシア人じゃない」という意味です。

主人公の国名は「グラコージア」と聞こえましたが、「グルコージア」かもしれません。そうすると、なぜ彼がロシア語を話すという設定になっていたのかが分かってきます。グルコージアはグルジアをモデルにしていると思われます。つまり、この映画の影の主題はアメリカとグルジアとの友好。まあそこまで考えなくても十分にこの映画は楽しめますが、つい最近一般の人にも明らかになったグルジア・アメリカ・ロシアの微妙な関係を考えると、なかなか深いメッセージがあると言わねばなりません。ロシア人が登場しないことにも何か意図があるのではないか、と勘繰りたくなります。もっとも、スピルバーグがロシアを敵視するとは思えませんが。

ただ、個人的には映画に政治的な背景を読み取るのは好きではないです。
ロシア語を話すおかしな外国人が空港でどのように人々との友情を深めたか、いかに解放を待ち続けたか、そういうところを楽しんだ方がいいですね。

ちなみに、仮にグルジアをモデルにしていたとしても、深い意味など最初からないのかもしれませんね。

ベネチアの結果

2008-09-07 21:46:11 | アニメーション
ベネチア国際映画祭に出品されていた『ポニョ』と『スカイ・クロラ』ですが、いずれも賞を逃したそうです。ただ、民間が授与する賞は受賞したとか。

日刊スポーツの報道によれば、

 ベネチア国際映画祭で主要賞の選には漏れたが、日本の3作がそれぞれ民間賞を受賞した。「崖の上のポニョ」は「CIAK」誌が制定する「観客賞」に加え、芸術性の高い作品に贈られる「ミンモ・ロテッラ財団賞」を受賞。「アキレスと亀」は映画誌「フィルム・クリティカ」の「バストーネ・ビアンコ(白い杖)賞」に選ばれた。優れた視覚効果を評価する「フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード」には「スカイ・クロラ」が選ばれた。

だそうです。
でもベネチア映画祭の賞は逃したってことですね。
きのう書こうと思って忘れていたんですが、『ポニョ』が受賞するとはどうしても思えませんでした。アニメーション映画祭であれば、『ポニョ』は高い評価を与えられて当然だと思いますが、一般の映画祭では、それほど高い評価は得られないだろうと思っていました。同じことを以前にも書きましたね。

『ポニョ』を「映画」と表現することには前から抵抗がありました。もちろん『ポニョ』以上に映画らしくない映画は存在するでしょうし、そもそも「映画」とは何ぞや、という問題も絡んできます。でもとにかく、『ポニョ』は「映画」である前に「アニメーション」だ、という思いが強いです。じゃあ「アニメーション」とは何ぞや、と聞かれると困ってしまうのですが、少なくともその原点は「止まっているものが動くこと」にあったと思います。『ポニョ』の最大の見所は、脚本でも、画面構成でも、映像美でも、キャラクターでもなく、とにかく「動き」だったと感じています。だから『ポニョ』は、映画というよりアニメーションだという印象が強いのです。

さて『スカイ・クロラ』も賞を逃しました。ぼくは映画としては『ポニョ』よりこちらの方を買っていたのですが、残念でしたね。日本とヨーロッパとの戦争に対する認識の違いも影響したのかもしれませんね。ただ、永遠に回帰する人生の中で、それでも生きる希望を見つけ出す物語は非常に哲学的で(ニーチェ的と言ってもいい)、深い感銘を受けます。この哲学的な問いが、向こうでどう受容されどう評価されたのか、詳しい話を聞きたいものです。

メン・イン・ブラック

2008-09-07 00:26:24 | 映画
昨日、テレビで『メン・イン・ブラック』(以下『MIB』)がやっていた。
この映画はぼくが中3のとき公開された映画だ。そのことはよく覚えてる。
ぼくが中3のときは注目映画が幾つも封切られた。例えば『もののけ姫』『ロストワールド』『タイタニック』だ。このうち『もののけ姫』と『タイタニック』は、日本の映画の興行記録を更新した。まず『もののけ姫』が、次いで『タイタニック』が。今では『千と千尋』が第一位だけど、当時はこの二つが相次いで一位になったんだ。

『MIB』はそれらの映画の陰に隠れてしまった感があるけど、それなりに注目を浴びていた。ぼくは当時この映画をすごく見たかった。上に挙げた三つの映画は映画館に見に行ったんだけど、結局『MIB』は見に行かなかった。受験生ってことが影響したのかもしれないし、ただなんとなく行きそびれただけかもしれない。他にも、『エヴァ』が公開されたのはぼくが中3のときなんだけど、これにもやっぱり行けなかった。行こうとしたんだけど。

『MIB』は、要するに地球に極秘で住んでいる宇宙人を極秘で管理する人たちの活躍を描いた話(彼らは黒いスーツの着用を義務付けられている)で、宇宙人の造形が見所の一つだ。タコみたいなのがいたり、やけに小さいのがいたりする。極悪の宇宙人をやっつけることに物語は収斂されてゆくんだけど、こいつがゴキブリの親玉的存在ということになっていて、どこかゴキブリを髣髴させる造りになっているはずなんだけど、あまりそうは見えなかった。たぶん審美的な問題だろう。でかいゴキブリが画面の真ん中で足を広げてごそごそしていたら、たぶん観客はぞっとするはずだから。

物語の後半は、地球が滅亡するかもしれない、あと数分で滅亡だ、ということになるんだけど、その展開がなんだか急で、あまり緊迫感もなかった。地球的な規模に話が膨らむのは、少し『ドラゴンボール』に似てると思う。もちろん、そういうところだけ。

話はスピーディだし、ギャグもあってそれなりに楽しめるんだけど、どこか馬鹿馬鹿しくって、B級映画の香りがする。映画では、ゴシップ誌が重要な情報源とされるけど、この映画もなんとなくゴシップ的なノリがある。高級感はなくて、襟を正してみる必要もない、ただ娯楽として消費されていくような映画。世の中にはこういう映画も必要だろう。

中3のときに見ていたら、どういう感想を持ったんだろうな。

ニーチェの永劫回帰(2)

2008-09-06 01:19:00 | 文学
前日のつづき。

個人的な感想。

永劫回帰思想というのは、それ自体としては、生を無意味化する思想であった。同一のことが過去に何度も繰り返され、未来にわたって何度も繰り返されるのだとしたら、全ての出来事が決定済みだとしたら、現在の生にいかなる意味がありえようか。

しかし、決定済みの出来事に対して、「私がそう欲した」と宣言することはできる。そのようにある運命に「然り」と言うことはできる。たとえ何万もの耐え難い出来事が人生にあろうとも、僅かな喜びのために人生を肯定し、「よし、もう一度!」と言うことはできる。それこそが永劫回帰思想の試練であり、この試練をくぐりぬけた者だけが、人生と運命を愛する者なのだ。

しかし、上記のような感想は、はっきり言って、ニーチェの解説書を読まなくても出てくるもので、実際、ぼくはそうだった。解説書を読んで分かったのは、このように一概には言えないということ。永劫回帰思想が現実肯定を導き出すものだとしても、そこには幾つかの躓きの石がある。例えば、永劫回帰の内部からは内部にいると認識できないのに、本当に現実肯定は可能なのか、ということ(内部の人間にとっては、回帰していようがなかろうが、人生は一度きりしか認識されないのだから)、また、『ツァラトゥストラ』におけるロバの「ヤー」とディオニュソス的な「ヤー」との区別の問題。

これらの事柄を理論的に解決するには大変な思考的な体力を消費する(須藤氏はがんばっている)。ぼくはニーチェの専門家でも哲学を専攻しているわけでもないから、こういう問題は苦手だし、そもそも追究する意味はあるのだろうか。もちろん、分かるに越したことはないのだが。

ところで、ドゥルーズによるニーチェの解説書を読みました。これ、全部理解できる人っているんでしょうか。「ある意味で猛烈に難解」と言う人もいますが。「ある意味」ってなんだ。部分的に読んだのですが、さっぱり分かりませんでした。初めから読んでもわからなかったと思います。『差異と反復』のように。

ニーチェの永劫回帰

2008-09-05 00:43:05 | 文学
ニーチェの永劫回帰思想というのは幾らか謎めいている、と考える人もいるだろう。それは正確には「等しきものの永劫回帰」と言い、清水真木の定義では、「すべての事象が全体として同一の順序に従って繰り返し生起すること」だ。つまり、この時代、この世界、そしてそこに生きている人たちが繰り返し出現するのだ。何度も、永遠に。ニーチェはこのような永劫回帰の思想を、1881年の夏、シルス・マリアの湖畔の道で思いついたと言われている。その場所にある三角形の大きな岩は、今では「ツァラトゥストラの岩」と呼ばれている。というのも、この永劫回帰の思想は、『悦ばしき知恵』第341章で初めて記された後、『ツァラトゥストラはこう言った』で本格的に披瀝されたからだ。

『この人を見よ』によれば、『ツァラトゥストラ』の中心思想はまさにこの永劫回帰である。それがどういうものかは既に見た通りだが、それがどういう意味を持つかは、人によって意見が分かれるようだ。例えば、前出の清水真木によれば、永劫回帰とは、私たちの「生存が無意味で苦痛に満ちたものであることの可能性を暗示する、認識の実験のために産出されたペシミスティックな仮説ないし妄想」に過ぎない。この認識を承認する者は、最も健康で最も強い人間、すなわち「超人」である。ということはつまり、永劫回帰思想とは、「超人」を選び出すための「試金石」というわけだ。

永井均の説はこうだ。『ツァラトゥストラ』における永劫回帰はニヒリズムの極限であり、生きる意味を失わせるものである。このニヒリズムの極限は、意志の力(私はそうあることを欲する)によって克服される。そしてそのような力を持つ者は、「超人」であるだろう。

これは、清水真木の説と近似していると見てよい。ところが、永井均は論を更に発展させる。「永遠回帰思想の最大のポイントは現実肯定にある」と述べるのだ。「その肯定は、この世界を、この瞬間を、この人生を、それ自体として、奇蹟として、輝かしいものとして、感じるがゆえに、おのずとなされる肯定でなければならない」。つまり、「意志の力によって肯定されてはならない」。前言を覆すかのような発言だが、恐らくこちらが『ツァラトゥストラ』にとどまらない永井均の解釈である。そこでは、「超人」はこう規定される。「永遠回帰を望まざるをえないほどに自己と世界を、その偶然的な現実を肯定している人のことである」。

存在する全ては、意味や価値によってではなく、ただそれ自体によって肯定される。「人生の無意味さは、耐えるべきものなのではなく、愛するべきものであり、悦ぶべきものであり、楽しむべきものなのだ」。そのとき、永劫回帰は、「私の生とこの世界そのものを、それ自体として内側から祝福する祈りなのだ」。

「内側から」という言葉に注意する必要がある。それは「外から意味づけているのではない」ということなのだが、仮に永劫回帰が起こっているとしても、その意味は外側からしか判断できないのではないか(内側にいてはそれを知ることはできない)、という批判に備えてのものである。永井均にとっては、永劫回帰の世界は「内側から」こそ祝福できるものなのだ。

ところが、永劫回帰の「外側」を措定してしまった人がいる。須藤訓任だ。彼は、神々という「外部」を「観客」として仮構することで、人間世界を有意味な物語にすることができる、と考えた。

彼は、「人間の生は「それ自体」として無意味」であって、その「無意味」なあり方を、ニーチェは「等しきものの永劫回帰」として提示した、とみなす。ここまでは清水氏や永井氏とも共通であるが、更にこう加える。永劫回帰思想では、世界の事象は一切あらかじめ決定済みである、にもかかわらず、その決定済みの事象の意味の新たな「始まり」の可能性は確保される。なぜならば、その事象を見る視覚はその都度新たなものとして可能なはずだからである。視覚・視点の無限な多様性に伴い、意味も無限なもの・常に再開可能なものとなる。つまり、事象は決定済みでも、その事実の意味は無限に新たに生まれる(決定済みではない)ということだ。ここで言う視点というのが神々の視点のことであり、虚構としての「外部」である。須藤氏は、これを永劫回帰思想の核心だと述べる。

三者三様の解釈だ。ところで、そろそろアニメが始まる時間になった。中途半端だけれども、ここらで切り上げよう。

ぼくが漫画を描いたなら

2008-09-04 01:44:17 | 漫画
漫画を描くとしたら、どういうものがいいだろう。
まず、複雑な機械や乗り物、多くの人間が登場する漫画は描けない。というのも、絵がそんなに上手じゃないから。できれば登場人物は少ない方がいい。

テーマは、今の自分の気持ちに寄り添ったものがいい。本当なら漫画『風の谷のナウシカ』のような、自然と人間の関係、人間の業などがテーマの作品が理想だけど、それではどこか借り物みたいになってしまいそう。

だから、将来どうするかとか、中学生の頃に戻りたいとか、そういう極私的なテーマ設定がいいかもしれない。世界観は狭いけれど、自分の気持ちに正直な漫画が描ける。

例えばこんな話。中学生の頃に戻りたいと思っているフリーター(男)が、ある日目が覚めたら本当に中学生になっている。戸惑いながらも、心の底で喜びを感じながら、学校へ向かう。仲間と楽しくじゃれあう主人公。ところが、次第に「大人の思考」が遊びに水を差す。体は中学生でも、心は大人なのだ。それに、将来のことを知っているため、世間の出来事に本気で入れ込むことができない。仲間たちとの会話も弾まない。こんなはずでは、と悩む主人公。

ここからどうするかはまだ浮かんでこないけど、とにかく最後には主人公は現実世界に戻り、過去を回顧するのではなく、未来を生きることを決意する。

でも。これは、どうもありふれた設定のように思えるし、第一、テーマがぼくを裏切っている。この漫画から言えることは、結局のところ、未来を大事に、ということだけど、そんなことは分かりきっている。分かっていても、それでも、過去を振り返ってしまうことに人生の深みがあるのだと思う。この漫画は、それが描けていない。単に「未来を生きよう」では、誰も心を打たれない。ぼく自身それでは納得できない。

いっそのこと、過去に留まり、永遠にそこに住み続けるという話に変えたらどうだろう。その過去は絶対的過去で、未来に通じることはない。のび太が永遠の小学5年生であるように、主人公たちは永遠に中学2年生であり続ける。回帰する世界。それはちょうど、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』のような世界だ。その永遠の世界を描くことで、ひょっとしたら、未来に通じる世界の方が意味がある、ということに気が付く読者がいるかもしれない。あるいは、永遠の過去の世界の方に安逸を見出す読者がいるかもしれない。判断は読者に委ねよう。

大事なのは、自分で信じてもいない価値を声高に主張しないことだ。人に押し付けないことだ。自分でも迷っているのだから、その迷いをそのまま漫画に投影しよう。それが、いまぼくのできる正直なやり方だと思う。

ところで、漫画を書く暇なんてあるのでしょうか…

天然コケッコー

2008-09-03 02:28:57 | 映画
『天然コケッコー』を見る。
去年、劇場で予告編を偶然目にし、そのときから見たいなあと思っていた。劇場へ見に行きたかったのだが、なんとなく行くことができず、そのままになっていた。

予告編で惹かれたのは、光だった。透き通った黄金色の光に、心が動かされた。実際の予告編の映像にそのような光が印象的に使われていた、というのではないかもしれない。それよりも、映像全体から、光を感じ取っていた。

田舎の学校の生徒は、中学生3人、小学生3人の6人だけ。一番年上は中学二年生のそよ(夏帆)。そこへ、東京から同じ中学二年生の大沢広海(岡田将生)が転校してくる。物語の始まり。

大沢君はちょっとへそ曲がりで、意地悪みたいに映るけど、いわゆるイケメン。皆で海へ行った帰り、自分だけ別の道を行こうとする。そよと二人きりになりたかったから。ちょっとぶっきらぼうな大沢君だけど、そよは次第に彼に惹かれていく。

中学生の恋って、中学生が付き合うって、こういうことなんだなあと思わされる。どこかぎこちなくて、でも優しい関係。苗字で呼び合う仲だけど、いつの間にかちゃっかり手をつないでる。キスもするけど、欲求からじゃない。それはお祝いのためだったり、取引の手段だったりする。それは自然な行為ではなくて、ちょっとの背伸び。

映像は淡々としている。台詞は少なくて、BGMも流さず、自然の音だけを効果音に、ひたすら風景と、風景の中に佇む少年少女を映し出す。印象に残っているのは、土手でそよが大沢君の学生服のボタン付けをしているところ。別れの予感にそよは押し黙り、虫の声が悲しい。
あるいは、どこかの小さな駅。柔らかな夕暮れの光が遠くから駅を包み込む。しんとした空気。線路が冷たくまっすぐに伸びている。しばらく映像は動かない。するとゆっくりと大沢君とそよが外からinしてくる。

この映画は、小さな出来事を積み重ねていって、およそ二年間の田舎の生活を描き出す。大きな事件は一つも起こらない。起こるのは、ありがちな些事だけ。給食を食べたり、皆で一緒に学校から帰ったり、田舎道を歩いたり。そういうなんでもないことを、あたかもとても貴重な時間のように、田舎の風景として切り取ってゆく。

これは、田舎にだけ特有の、東京ではありえない光景だろうか。確かに東京にこのような自然はない。しかし、描かれるのは、東京でも体験できる出来事ばかりだ。散歩や給食といった日常的な出来事が、すばらしい体験になりうる。田舎の光に照らされなくとも、その体験は可能なのだ。しかし、田舎に特有ではないが、中学生に特有の体験だとは、言えるかもしれない。

ぼくがこの映画の予告編で感じた光は、田舎の光ではなくて、中学生の光だった気がする。あの明るく、儚げで、眩しい光。誰にでも訪れる、そして永遠に帰らない光。人を好きになれたら、それだけで幸福になれた時代。たぶん、ぼくは自分の中学時代をこの映画に重ねているのだと思う。あの時代を、あの一瞬を、このような柔らかな光の中に位置付けてくれて、感謝している。ああ、自分の一番大事なものは、この時代の思い出なんだな、と改めて思う。

中学生の頃、恋をしていた人、したいと思っていた人、そういう人には、お薦めできる映画です。

湯河原での出来事(4)

2008-09-03 01:26:41 | お出かけ
四日目
朝から雨が降っている。今日は最終日。
雨の中バス停で待っていると、尺取虫が。久しぶりに見た。バスに乗り込み、湯河原駅へ。今日は星の王子さまミュージアムに行く予定で、とりあえず小田原まで出ることに。小田原行きの電車の中で、バスの中に折り畳み傘のカバーを忘れたことに気が付く。普段折り畳みを使い慣れないので、うっかりしていたようだ。

小田原は広い駅。駅の中で昼食を済ます。バスの時刻が間近なので、バス停へ急ぐが、辿り着けない。広い駅で、構造が頭に入っていないせいだ。結局、乗り遅れてしまう。小田原駅の地下街にあるお店は全てシャッターが閉まっていて、閑散としている。みな潰れてしまったのだろうか?

次のバスが来るまで、お土産などを見て過ごす。
ようやく時間が来て、今度はちゃんと乗ることができた。しかし、バスの運転手が道路の渋滞を告げる。どうやら「ユモト」まで渋滞が続いていて、そこまで30分はかかるらしい。「ユモト」なる駅がどのあたりにあるのか皆目分からず、目的地の星の王子さまミュージアムまでどれほどかかるのかが分からない。本来なら40分ほどで行けるはずなのだが…。
実際、途中で渋滞にはまる。バスは遅々として進まず、時間だけが流れてゆく。もう30分近くが経っている。帰りの電車が決まっているため、それまでに湯河原に戻らなくてはいけない。4時半の電車だ。現在1時半。雨のせいで、さっき乗った湯河原―小田原間の東海道線も遅れていた。帰りも遅れるかもしれない。星の王子さまミュージアムからの帰りのバスも、渋滞や雨のせいで遅れることは充分に考えられる。このままバスに乗って、2時頃に目的地に着いたとしても、時間に余裕を持たせるためにすぐに帰途につかなくてはならないだろう。そうすると、見学の時間がなくなってしまう。それならば。

それならば、と思い、いっそここでバスから降りて、小田原へ戻ることにした。さっきバスから電車の駅が見えた。「風祭」という停留所で降りることにした。
そこは、色々な料理屋などが建ち並ぶ、比較的開けた土地だった。観光地なのかもしれない。雨はいつの間にかやんでいる。すぐそばに、「かまぼこ博物館」なるものがある。それまで知らなかったのだが、小田原はかまぼこが有名なのだそうだ。星の王子さまミュージアムはやめて、かまぼこ博物館に入る。中は案外広く、かまぼこ作りの体験コーナーが今まさに行われている。展示はけっこう充実していて、意外に感じた。かまぼこの歴史に興味を持つ人がいることは正直驚きだったが、老若男女の観光客が訪れていて、文士の記念館よりもよっぽど盛況だ。色々な企画もあるようで、工夫が凝らされている。マイナーな博物館だから、余計に工夫を凝らしているのかな、と思ったが、かまぼこは別に地味というわけではなく、文学などよりもお客を呼べるものなのかもしれない。

二階のギャラリーではかまぼこ板に描かれた絵を展示している。その中に、あの久里洋二の描いた絵がある。他に、村上隆やちばてつやなど、かなり知名度の高い人の作品も飾られている。ちなみに、久里洋二はアニメーション監督の巨匠。このかまぼこ博物館は、実は名の知られたところなのかもしれないな、と思う。

小田原に戻り、小田原城へ。天守閣だけを見学。他に見学スポットはたくさんあるようだったが、時間もないことだし、歩き疲れていたので、お城だけにする。刀や武具などの他は、あまり興味がないのでさっさと通り過ぎる。最上階からの眺めは、海が見えるところは壮大だが、感動するほどではない。たぶん、高いところから見た景色など、見慣れているからだろう。

湯河原に戻り、電車を待つ。しかし時間が過ぎても来る気配がない。しばらくして放送が流れ、どうやら電車は30分ほど遅れているとのこと。やれやれ。ベンチで待ち惚け。
30分が過ぎ、ようやく電車が到着。今日は一日中雨だと思っていたが、かまぼこ博物館から結局ほとんど降らなかった。

これで湯河原ともお別れ。三泊四日は中2の修学旅行以来だったが、あっという間だった。何もかもが走るように過ぎ去ってしまった。今日でもう一週間が経つが、まるで旅行になど行かなかったような気さえする。今日「学校へ行こう」を見ながら、ちょうど一週間前、宿でこの番組を見ていたことを思い出す。あれからもう一週間!なんてことだ。時間は同じスピードで流れているのではない、と言ったのは誰だったか。

家に着いてしばらくすると、湯河原で既に痛み出していた頭が、猛烈に痛み出す。そういえばこの日は、さんざんだったなあと思う。

さて、どのようにこの日記を終わらせるか、さっきから考えている。やはり、この話題にしよう、最終日の夕飯は、東京駅で食べたピザでした。おいしかったです、と。

久石譲in武道館onTV

2008-09-01 01:06:05 | テレビ
八月の初めに武道館で行われた、久石譲による宮崎アニメの音楽の合唱と演奏が、8月31日NHKで17時から一時間、放送された。

この「久石譲in武道館」には色々あって行けなかったので、放送を楽しみにしていた。想像以上に大規模なコンサートで、オーケストラ、合唱団など、人数にまず圧倒される。観客席は超満員で、テレビ画面からも熱気が伝わってくる。

演奏はナウシカからポニョへ、と順番に行われたのではないようで、最後にやはり定番のトトロの歌が歌われた。

さて、この中でも特に感動したのは、ラピュタとポニョとハウルの歌。「君をのせて」の、「さあ出かけよう」から男声・女声混交の合唱になるところは、「おお~」って感じでぐっときた。それまでは児童合唱団の抑え目な歌声だったので、いきなり力強い大人の声が混じったことで、壮大さが一気に増した。あの演出はよかった。

そしてポニョの、ひまわりの家の人たちを歌った歌。これはイメージアルバムに収められていて、曲名を忘れてしまったが、この歌を聞いて宮崎駿が涙を流したことは有名。これまで何度も聞く機会があったんだが、今回改めて聞いたとき、ぼくもうるっときてしまった。これはお年寄りの気持ちを歌ったものだから、ぼくのような20代の人間が感動するような歌ではないはずなんだけど、こみ上げてくるものがあった。もう一度思いっきり走りたい、お掃除したい、料理をしたい、という気持ちに、どうしてだか非常に共感してしまった。たまたまこの歌を聞いていたぼくの母は、後で「いい歌ね」と言っていた。死んだ母のことを思い出していたらしい。母の母(つまりぼくにとっての祖母)はリウマチにかかり、死ぬ前の何年かは寝たきり状態が続いていた。死ぬ前に、もう一度元気に歩き回れたら、どんなに幸せだっただろう。祖母の介護をしていた母は、この歌を聞いて、祖母の叶わぬ気持ちに思いを馳せたのだと思う。

この歌を歌ったのは久石譲のお嬢さんで、実は彼女はナウシカのあの「ランランララランランラン」を歌った人でもある。当時はまだ四歳。今ではもう立派な歌手だというから、成長したものだ。

ハウルのCave of mindはぼくの大好きな曲で、実際の映画の中では「星をのんだ少年」にバージョンアップして使用された。この曲をハウルの映像(カルシファーとの契約、溢れる星の光、それを見たソフィーが時空の狭間のようなところを落ちてゆく)を見ながら聞いていると、まるで周りの時が止まったように感じ、体も硬直してくる。この音楽とシーンは本当にめちゃくちゃ好きで、ハウルという映画はこのシーンがあることで傑作になっている、とさえ思う。

ああ、こんなにすばらしかったのなら、なんとしてでもコンサートに行くべきだったかもしれない。テレビを見ただけでも、ものすごくよかった。

湯河原での出来事(3)

2008-09-01 00:31:21 | お出かけ
三日目
この日も目覚めは悪かった。
そういえば、前日の夕飯にたまねぎを使った大胆な料理が出された。大きなたまねぎを真っ二つに割り、中心をくりぬいてそこに肉を詰めただけの料理。あんかけのようなぬめっとした汁に満たされていた。ロールキャベツという料理はあるけれど、これは一体…

さて、今日は真鶴へ行って、その後はホテルのプールで遊ぶ日。
とりあえずバスで湯河原へ行き、東海道線で隣の真鶴駅へ。残念なことに、空は晴れ渡っている。天気予報は大嘘をついたってこと。こんなに晴れて気温も上がるのなら、今日海で泳げばよかった!しかし嘆いても詮無いことで、バスに乗って三石というところへ行く。
そこは景勝地のようで、高いところに位置し、眼下に海が広がっている。おみやげ館のようなところがあり、観光スポットのようだ。まず階段を下りて、海岸へ向かう。階段はかなり長くて、上りはきつそうだ。途中でスズメバチが地面を這っているのに出くわす。危ないなあ。そばにいた女性の観光客もおっかなびっくりしていたのだけど、それを見た連れの男性が、「情けねえなあ」みたいなことを言っていた。「あらたくましい!」って思う人もいるかもしれないけど、こういうのは蛮勇みたいなもので、ちっともかっこいいことではない。スズメバチは大変危険だから、近寄らないようにした方がいい。蹴っ飛ばそうものなら、襲ってくるかもしれない。この男、蜂をなめてるな、と思う。

さて、海岸は昨日の湯河原の海水浴場とは違い岩場で、丸っこい石がごろごろしている。海辺や川の石が丸い理由を、むかし(小学生の頃)習ったのを思い出した。石の上を渡って水のすぐ側まで行く。周りには人がけっこういて、大人も子どもも小さな網を抱えて浅瀬に入って何やら探している。ぼくらは特に探すものもないから海辺の大き目の石に腰掛ける。すぐ下に目を落とすと、灰色をした小さなカニがいる。探してみると、いるいる。5、6匹のカニが歩き回っている。中には赤色のカニもいて、やっぱりカニは赤が似合う、などと思う。それにしても陽射しが強い。30分くらいで引き上げたのだけど、少しばかり日に焼けてしまった。

のぼりの階段はやはりきつかった。伊豆の石廊崎(いろうざき)を思い出す。この暗黒の記憶。石廊崎はとても暑い日に歩いたのだけど、とにかくのぼりの坂や階段がしんどくて、しかも途中でお腹が猛烈に痛み出して、非常につらい思いをした。結局途中で引き返し、しばらく安静にした後、夕方に近づいた頃、再びチャレンジしてようやく海を目にしたのだった。三石の坂はそれに比べれば楽と言える。体調も崩さなかったし、無事に上りきる。ソフトクリームを食べて、帰りのバスに乗り込む。

宿に着いて、プールへ行く支度をする。本当は二日目にプールへ行き、三日目に海へ泳ぎに行く予定だったのだけど、天気予報に惑わされて順序が逆になってしまった。まあ仕方ない。
プールは屋上にあって、透明のガラスで覆われていた。と書くときらきらした印象を与えてしまうかもしれないけど、なんとなく薄汚れていた。目立った汚れはないんだけど、なんとなくちゃちな感じ。他に人はおらず、しばし泳ぐ。
ひとしきり泳いだ後、初めて浮き輪を使った。かなり小さい頃から泳げたので、浮き輪のお世話になったことがなかった。初めて水に浮かべてみたのだけど、こんなに浮くとは思っていなかった。上から強く押してもまるで沈まない。すごい。そのあとボールで遊ぶ。

この日の夕飯は豪勢だった。最終日なので、宿が気を利かせてくれたのだろうか。伊勢海老、カニ、ステーキ、アワビ(ゼリーに閉じこめられている)が出た。とりあえず高そうな品は全て平らげる(貧乏根性か)。最後にデザートのアイスクリーム二つをゆっくり食べて、満腹。

布団を敷きに来る人が今日は違った。いつもは無表情な下っ端的な人が来ていたのだけど、この日は少し年配の、にこやかな顔をした人。いつもの人は別の部屋担当になったのだろうか。

今夜もテレビを見て、寝る。電気を全て消すと真の闇になるので、玄関(入口)の電気だけ点けて、ふすまをほんの少しだけ開けておく。すると僅かな光線が部屋にほのかに差し込んでくる。それでも部屋の中はほとんど何も見えないけど、物の気配はぼんやりと感じられる。これでリラックスして寝られる。

最終日、4日目のことは明日書こう。それで完結。