Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

聖なるものと〈永遠回帰〉

2008-09-25 16:42:49 | 文学
湯浅博雄『聖なるものと〈永遠回帰〉』(ちくま学芸文庫、2004)を読了。

この本で言われていることは、要するに以下のようなことだ。

例えば聖なるものの経験、宗教的なものの経験、強い愛の経験、そして文学・芸術の経験の深奥などにおいては、客観的に物事や出来事を捉え、認識することのできない、非知の部分がある。そういう異質な現実・真実性を、ヘーゲル以来の〈知の体系〉は異質なまま捕捉することができない。そういった異質な現実・真実性は、言葉で表現したり、思い出そうと思って想起しても、もとの生き生きとした状態で表象されることはない。それはひとえに反復的、永遠回帰的にのみ生きられる。そういった出来事は「私」の意識に真実に思い描かれることがない、「知」で捉えることができない部分を含むので、対象=客体として定まらず、起源の項にはなりえない。したがって、反復と言っても、その出来事という起源が現在に反復するのではない。そういう出来事は失われたものとしてしか発見されず、再び見出されたものとしてしか存在しない。そういう出来事は不意の想起によって再来するのだが、そういうふうに反復されて初めて「そういう出来事」として成り立つ。反復されるときは必ず変容しており(差異を伴っており)、そのつど新たに生きられる。

この500字程度の内容が、手を変え品を変え文庫で300ページ弱の中で語られる。繰り返しが非常に多いので、たぶん凝縮すれば150ページほどで語り直すことができるだろう。

この本は湯浅博雄の別の本、『反復論序説』とほとんど言っていることは同じなのだが、その内容を膨らませていることは確かだ。『反復論序説』ではネルヴァルの『シルヴィ』という小説をほとんど唯一の起点にして上記の内容を語るのだが、いま問題にしている本では、反復的にしか生きられないという出来事を宗教的な経験や強い愛の経験にまで拡大している。

要は、知では捉え切れない強い経験というものは、言葉で再現できるようなものではなく、それはある特殊な反復によってのみ生きられるのだ、ということだけが本書で言われていると見てもよい。その主張は一本筋が通っているのだが、しかしこの主張を苦もなく理解することは困難だろう。世間で通用している概念を打ち破らなければ、その主張は了解されないからだ。予期せぬまま不意に思い出されることでしかその出来事が生きられない、というのは、経験上、不思議な感触があるのは否めない。

ただし、ぼくたちはたぶんこんな経験をしたことがあるはずだ。なにかすばらしい本を読んだり、映画を観たりして、強烈な印象を受けたのだが、それを言葉にしようとして、その経験を必死に他者に伝えようとしても、そのときの生々しい衝撃を再現することができない。伝えようとすればするほどその出来事は遠ざかってゆく。そういう経験は誰しも持っているだろう。湯浅博雄は、そのことを、不意の想起という反復で説明したのだと思う。

ところで、このように、自分が強く経験した出来事を、懸命に言葉にしようとして腐心し、しかし言葉にしようとすればするほどその出来事から遠ざかる、という現象は、文学に特有の現象である、と湯浅氏は述べる。文学においては、作者の経験や思想などを忠実に言葉にするのが「よい文学」なのではない。そもそも、〈もの〉というもの(現実界)は、言葉の機能や作動範囲からはみだしてしまう。書き手は、言葉で出来事そのものを現前させようとして近づいてゆくが、離れ、また近づいてゆく、というこの接近運動の反復を行うしかない。その意味で、文学というもの(書くという行為)はそれ自体で常に既に反復である。読むという行為もまた、書くというプロセスを反復するのであるから、やはり反復である。しかも、新たな読み方を常に行い続けるならば、それは新たに生きることであり、二次的ではない、一次的な反復である。



というわけで、今回はかなり高度かつ難解な内容でしたが、湯浅博雄の本自体はけっこう分かりやすいので(外来語を親切に説明してくれたりする)、こういった内容に興味のある人は、図書館で借りるなりして読んでみてはいかがでしょうか。ちなみにこの人はフランス文学が専門です。