Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

新海誠とコミュニケーション(4)

2008-09-21 00:27:44 | アニメーション
『新海誠を考える
~届かなかったメッセージ~(4)』

いよいよ最終回。今回は短編作品を扱います。

これまで「届かなかったメッセージ」を切り口に新海誠の作品を一つ一つ見てきましたが、相手に気持ちは通じている(可能性がある)ときも、言葉ではその気持ちを表現できていないという現象が浮かび上がってきました。したがって、メッセージが届いているのかいないのか、一概には言えそうもありません。言葉で伝えることを重視するのなら、それは不完全に終わっています。言葉を超えたコミュニケーションを重視するのなら、(まがりなりにも)成立している場合が見られます。新海誠が制作した信濃毎日新聞のテレビCM映像もまた、メッセージが届いているのかいないのか、不透明な例です。

このCFでは、女子高生が自転車をこぎながら、電車に乗ってどこかへ旅立つ父親を見送るシーンが流れます。コピーは「大切なことを、伝える。」となっていて、まさに新海誠の今までの作品のコピーと呼んでも差し支えありません。新海誠はこの映像に対し、「豊かな自然を舞台に、大切な相手に想いを伝えようとする人物の姿をアニメーション映像で組み立てました」と語っています。
女子高生は、言葉では想いを伝えることはできなかったかもしれませんが、その必死に自転車をこぎ何かを叫ぶ姿から、全身で父親にメッセージを送っていることが伝わってきます。父親はその姿を見て、何かしら感じ取ったに違いありません。

思うに、新海誠の作品では一貫して、このように懸命に想いを伝えようとする人物が描かれてきました。ノボルとミカコ、サユリ、タカキ、アカリ、カナエ…。しかしながら、彼彼女らの想いが相手に伝わったかどうかは、分からない場合が多いのです。『ほしのこえ』ではメッセージが相手に届くかどうかは絶望的でありながら希望も残していました。『雲のむこう~』でサユリは愛の言葉を失い、その気持ちが相手に届いたかどうか分かりません(届かなかったのではないか、と推測されます)。『秒速5センチメートル』だけは例外的に、言葉にせずともアカリとタカキの想いは成就されます。が、結局二人の恋は将来的に実らず、二人の間は引き裂かれてしまいます。カナエは必死になって自分の想いを相手に伝えようとしますが、叶いません。恐らくタカキは察してはいますが、その想いに応えることはありません。

このように見てゆくと、想いが伝わったか否か分からないか、あるいは伝わっても成就しなかった場合が多いように思われます。コミュニケーションが不首尾に終わったと考えてよいでしょう。

新海誠がNHKの「アニクリ15」用に制作した『猫の集会』はどうでしょうか。これについて、「「猫と人のディスコミュニケーション」、そして「それでも世界は回って行く」ということをテーマにした」という意味のことを新海誠は述べているようです(http://d.hatena.ne.jp/nami0101/20071209/p1)。猫と人との関係は、処女作『彼女と彼女の猫』でも描かれていて、新海誠にとってはおなじみのテーマです。

『猫の集会』では、まさに「猫と人のディスコミュニケーション」が主題になっていて、ある一家で飼われている猫とその一家とのディスコミュニケーションがコミカルなタッチで描かれます。しかし、その一方で猫は家族から愛されていて、たとえコミュニケーションが上手くいかなくても、仲良く暮らすことができています。ここでは、相手に懸命に想いを伝えようとする姿は描かれませんが、人間と上手くコミュニケーションを取れない(邪険に扱われているように感じる)はけ口に街を破壊しようとする猫の集団の姿が描かれていて、想いを伝えようとすることのマイナスの力が噴出していると考えてよいでしょう。想いを伝えられないから破壊する、という子供じみた短絡的な行動がコミカルに描写されているわけです。したがって、『猫の集会』でもやはり「相手にメッセージを伝える」ことが隠れたテーマになっていると考えられます。

新海作品では、相手に想いを伝えようとする姿が描かれている、と述べました。しかし、その結果が明らかにされない、もしくは不成功に終わることで、観客にはその行為が鮮烈に印象付けられ、涙を誘うことになります。そのような行為が新海誠作品の鍵となるのです。したがって、そのシーンはクライマックスとなることが多くなります。その点で、『秒速5センチメートル』は異色だと言えるでしょう。既に第一話「桜花抄」で、お互いの想いが伝わり、恋が成就するのですから。また、懸命に想いを伝えようとする姿も、映画の一点に集中するような形では描かれません。電車に閉じこめられている時間を長くすることで、持続的に想いを伝えようとする行為を描いています。ですから、『秒速』の映画的クライマックスは「コスモナウト」のカナエがタカキに想いを伝えようとする場面にある、と見るのが正しいかもしれません。

『秒速』では、高校以後のタカキのメッセージはアカリに届きませんが、それが『雲のむこう~』ほどの鋭い感動を呼ばないのは、彼のメッセージを届けようとする想いが、集中的に描かれていないせいだと思われます。「桜花抄」と「コスモナウト」で持続的・断片的にその想いは描かれますが、他の新海作品に比べ、描写が弱いのです。そのため全体的にまとまった作品になっていますが、飛び抜けた要素のない、しみじみとした出来になっているように見受けられます。

話が少し脇道にそれたようです。
「届かなかったメッセージ」と副題をつけて連載してきましたが、何も新海誠を真っ向から論じる、というのではなく、「届かなかったメッセージ」という切り口で新海誠の作品を振り返ってみよう、という程度の趣旨で始めたのでした。思いがけず話が膨らみ、ここまでで全体で8000字を超える分量になってしまいました。ああ、ぼくは新海誠の作品が本当に好きなんだな、と思った次第です。

                            完