Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

栞の恋

2011-11-21 16:38:30 | 文学
ひょんなことから朱川湊人「花まんま」と「栞の恋」という短編を読みました。
個人的には「花まんま」よりも「栞の恋」の方がおもしろかった!
これはジャック・フィニイの「愛の手紙」と同じ着想の好短編で、栞/手紙を介して時間を超えたやり取りをする男女の物語です。とある商店街の古書店に置かれていたランボオの古い研究書を読みに熱心にお店に通う青年。彼に想いを募らせている女性があるときその本を開いてみると、中にイニシャルの書かれた栞が挟まっていた。やがて栞を手紙に見立てた「文通」が始まり・・・というお話。

繰り返しになりますが、フィニイの「愛の手紙」によく似ています。ただし、内容の既視感に辟易したというようなことはなくて、むしろ「再びの心地よさ」に浸ることができました。再びの心地よさ、という妙な表現を使いましたが、この「心地よさ」は、ぼくの場合たぶんフィニイの短編に由来するものではない。もっと遠くの、もっと深い淵源があるのです。恐らくその一つには、時空を超えた恋物語という点で新海誠の『ほしのこえ』を挙げることができるのでしょうけれども、今回ぼくの感じた「心地よさ」は、どうやらそれとは違うらしい。では何かと言えば、やはりアニメーション映画である『耳をすませば』です。図書カードを介した恋物語、という今から思えばレトロな設定と、昭和40年代の古書店という舞台設定とは、ノスタルジーという点で共通しています。そしてもちろん、図書カード/栞というやはりノスタルジックなギミックを用いている点が、両者の相貌を近似したものに見せています。だからこそぼくは、「栞の恋」を読んだときに「あの心地よさ」にもう一度浸ることができたのだと思います。

しかし、『耳をすませば』が上映された当時はまだ図書カードは過去の遺物とはなっていなかったわけで、それはノスタルジックな要素にはまだなっていなかったと思います。したがって、ぼくの感じた心地よさというのは、『耳をすませば』にある種のノスタルジーを感じてしまう今のぼく個人の感受性に由来しており、他の人には当てはまらないのかもしれません。もちろん、図書カードや栞というアナログな媒体を用いている事実は変わりないのですが。

ところで、ヒロインの女性はランボオのことを知りませんが、彼女がランボオを江戸川乱歩と勘違いするところはおもしろかった。それにしても、どうしてランボオだったんだろう。『地獄の季節』に、後世の人間をして「栞の恋」を発想させるような素材があったかしらん。読み返してみたいとも思いますが、たぶん読み返さないんだろうなあ、ぼくは。

そういえば昔、図書館で借りてきた本の図書カードに自分の拙い感想をびっしり書き込んでからその本を返却したことがありました。でもたぶんそれは、『耳をすませば』に倣ってというよりは、漱石の『三四郎』に同じような場面があるのを念頭に置きながらやった行為だったように今では思い出されます。それともこれは過去の改竄?いずれにしろ、その本をぼくが再び借りることはありませんでした。

消失

2011-11-21 01:25:08 | アニメーション
涼宮ハルヒの消失を観たんですけれど、こんなにおもしろいとは思っていませんでした。で、色々と感想を書きたいような気がするんですけれど、まず第一に明日は朝が早い、第二に何から書いていいのか分からない、ということで、走り書き程度になります。

何がこんなにおもしろかったんだろう。長門が異様に可愛かった、というのがキーになっているように思われるのですが、そのことと、こんなにもおもしろかったということとがどのようにして結びついているんだろう。

迷惑だと考えていた日常が、実はとても大事なものであるということに気が付く、つまり日常の価値を発見する物語なわけですが、まずはそのテーマがぼくの好みですね。それと、単純に長門とキョンのありえたかもしれない恋を垣間見ることができたこと、これもぼくの嗜好に合っていたのかもしれません。

日常の価値を再発見するというテーマは、震災後の現在はいよいよ切実なテーマになってきているわけですが、日本のテレビアニメというのは日常の一コマを切り取った作品が増えてきているので、その流れの中に『消失』を位置づけることができるのかも。このかけがえのない当たり前の世界、普通の日常を愛おしく思うという感慨は、失われゆく現在とも背中合わせなわけですから、そこには切なさも同居しているので、それは何らかの物語になる素材なのだと思います。

そしてその日常というものは、長門との恋物語に発展しえたかもしれない。ハルヒのいる日常と、長門のいる日常と、どちらか一方を選択することをキョンは迫られたわけです。これに対して彼は、日常性を肯定するという行為をもってハルヒのいる世界を選択しました。つまり、キョンにとって日常というのはハルヒのいる日常に他ならなかったわけですね。

それはそうと、このシリーズでおもしろいのは、キョンと誰かとの関係が恋に発展しそうで実は全くそうならない、というところだと個人的に感じています。そこに何となくもどかしさみたいなものがあって、いい。だからこそ、今回の長門との関係性はまさしくそこをストレートに突いたものであって、ぼくの気に入ったのかも。

とまあ、こんなことを考えてみました。いやあ、おもしろかったなあ、それにしても。なんでこんなにおもしろいのかなあ・・・最初の疑問に戻ってしまったけど。