ひょんなことから朱川湊人「花まんま」と「栞の恋」という短編を読みました。
個人的には「花まんま」よりも「栞の恋」の方がおもしろかった!
これはジャック・フィニイの「愛の手紙」と同じ着想の好短編で、栞/手紙を介して時間を超えたやり取りをする男女の物語です。とある商店街の古書店に置かれていたランボオの古い研究書を読みに熱心にお店に通う青年。彼に想いを募らせている女性があるときその本を開いてみると、中にイニシャルの書かれた栞が挟まっていた。やがて栞を手紙に見立てた「文通」が始まり・・・というお話。
繰り返しになりますが、フィニイの「愛の手紙」によく似ています。ただし、内容の既視感に辟易したというようなことはなくて、むしろ「再びの心地よさ」に浸ることができました。再びの心地よさ、という妙な表現を使いましたが、この「心地よさ」は、ぼくの場合たぶんフィニイの短編に由来するものではない。もっと遠くの、もっと深い淵源があるのです。恐らくその一つには、時空を超えた恋物語という点で新海誠の『ほしのこえ』を挙げることができるのでしょうけれども、今回ぼくの感じた「心地よさ」は、どうやらそれとは違うらしい。では何かと言えば、やはりアニメーション映画である『耳をすませば』です。図書カードを介した恋物語、という今から思えばレトロな設定と、昭和40年代の古書店という舞台設定とは、ノスタルジーという点で共通しています。そしてもちろん、図書カード/栞というやはりノスタルジックなギミックを用いている点が、両者の相貌を近似したものに見せています。だからこそぼくは、「栞の恋」を読んだときに「あの心地よさ」にもう一度浸ることができたのだと思います。
しかし、『耳をすませば』が上映された当時はまだ図書カードは過去の遺物とはなっていなかったわけで、それはノスタルジックな要素にはまだなっていなかったと思います。したがって、ぼくの感じた心地よさというのは、『耳をすませば』にある種のノスタルジーを感じてしまう今のぼく個人の感受性に由来しており、他の人には当てはまらないのかもしれません。もちろん、図書カードや栞というアナログな媒体を用いている事実は変わりないのですが。
ところで、ヒロインの女性はランボオのことを知りませんが、彼女がランボオを江戸川乱歩と勘違いするところはおもしろかった。それにしても、どうしてランボオだったんだろう。『地獄の季節』に、後世の人間をして「栞の恋」を発想させるような素材があったかしらん。読み返してみたいとも思いますが、たぶん読み返さないんだろうなあ、ぼくは。
そういえば昔、図書館で借りてきた本の図書カードに自分の拙い感想をびっしり書き込んでからその本を返却したことがありました。でもたぶんそれは、『耳をすませば』に倣ってというよりは、漱石の『三四郎』に同じような場面があるのを念頭に置きながらやった行為だったように今では思い出されます。それともこれは過去の改竄?いずれにしろ、その本をぼくが再び借りることはありませんでした。
個人的には「花まんま」よりも「栞の恋」の方がおもしろかった!
これはジャック・フィニイの「愛の手紙」と同じ着想の好短編で、栞/手紙を介して時間を超えたやり取りをする男女の物語です。とある商店街の古書店に置かれていたランボオの古い研究書を読みに熱心にお店に通う青年。彼に想いを募らせている女性があるときその本を開いてみると、中にイニシャルの書かれた栞が挟まっていた。やがて栞を手紙に見立てた「文通」が始まり・・・というお話。
繰り返しになりますが、フィニイの「愛の手紙」によく似ています。ただし、内容の既視感に辟易したというようなことはなくて、むしろ「再びの心地よさ」に浸ることができました。再びの心地よさ、という妙な表現を使いましたが、この「心地よさ」は、ぼくの場合たぶんフィニイの短編に由来するものではない。もっと遠くの、もっと深い淵源があるのです。恐らくその一つには、時空を超えた恋物語という点で新海誠の『ほしのこえ』を挙げることができるのでしょうけれども、今回ぼくの感じた「心地よさ」は、どうやらそれとは違うらしい。では何かと言えば、やはりアニメーション映画である『耳をすませば』です。図書カードを介した恋物語、という今から思えばレトロな設定と、昭和40年代の古書店という舞台設定とは、ノスタルジーという点で共通しています。そしてもちろん、図書カード/栞というやはりノスタルジックなギミックを用いている点が、両者の相貌を近似したものに見せています。だからこそぼくは、「栞の恋」を読んだときに「あの心地よさ」にもう一度浸ることができたのだと思います。
しかし、『耳をすませば』が上映された当時はまだ図書カードは過去の遺物とはなっていなかったわけで、それはノスタルジックな要素にはまだなっていなかったと思います。したがって、ぼくの感じた心地よさというのは、『耳をすませば』にある種のノスタルジーを感じてしまう今のぼく個人の感受性に由来しており、他の人には当てはまらないのかもしれません。もちろん、図書カードや栞というアナログな媒体を用いている事実は変わりないのですが。
ところで、ヒロインの女性はランボオのことを知りませんが、彼女がランボオを江戸川乱歩と勘違いするところはおもしろかった。それにしても、どうしてランボオだったんだろう。『地獄の季節』に、後世の人間をして「栞の恋」を発想させるような素材があったかしらん。読み返してみたいとも思いますが、たぶん読み返さないんだろうなあ、ぼくは。
そういえば昔、図書館で借りてきた本の図書カードに自分の拙い感想をびっしり書き込んでからその本を返却したことがありました。でもたぶんそれは、『耳をすませば』に倣ってというよりは、漱石の『三四郎』に同じような場面があるのを念頭に置きながらやった行為だったように今では思い出されます。それともこれは過去の改竄?いずれにしろ、その本をぼくが再び借りることはありませんでした。