Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

せめて、土に。

2011-11-16 22:55:33 | 音楽
2,3日前の朝日新聞に高校生の短歌が載っていて、それが存外よかった。正確な詩句は忘れてしまったのだけど、「廊下に落葉(らくよう)が落ちているけれど、それは土にもなれないのだな(私もまたそうかもしれない)」というような内容だった。ね、いいでしょう。他の歌にも光るものがあった。

で、『千年幸福論』に「遺書」という作品が収録されているのだけど、そこでは「私は土になるのです」と歌われている(あるいは朗唱されている)。こんな私なぞは吹き曝しくらいがちょうどいい(まさに雨ざらしがちょうどいい!)、だから私は土になる、誰かに踏まれる土になる。

これは自分を卑下し卑屈になっている歌では決してない(誰かに対して謙遜している歌であるはずは当然ない)。そうではなく、覚悟の歌だ。覚悟の詩だ。だからこそ「遺書」というタイトルが冠せられているのだと思う。

私は誰かに踏まれる土になります、と宣言するまでには、途方もない艱難辛苦が、挫折が、滂沱の涙があったのだと思う。そういう生き方を選ぶということは、でもたぶん多くの大人たちがしてきたことだし、していることだ。つまりぼくらは皆、途方もない艱難辛苦と挫折と滂沱の涙を経験している。だから秋田氏の歌詞が凡庸だなどと言うつもりは毫もない。そうではなく、だからぼくらは彼の詩に共感できるのだ。そして、そういう我々に共有される感覚をクロースアップし、大抵は流されるままに土になることを受け入れてしまうぼくらの受動性に、「遺書」という覚悟を決めた言葉でぼくらを向き合わせてくれた。彼は土になることを自ら選び取る。悲愴な決意を秘めて、あるいは莞爾として?

ああそうか、ぼくは土になろう。微笑みを浮かべながら。

けれど高校生は、土にもなれない不安を歌う。秋田氏は、土になる覚悟を歌う。
たおやかな花にはなれないけれども、せめて土に。でも土にもなれなかったらどうしよう?だから覚悟を決めないと。土だって立派な生き方だよ。