けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

<後編>集団的自衛権の憲法解釈に関する現状を整理してみた

2014-03-01 20:35:02 | 政治
昨日の集団的自衛権にまつわる憲法解釈の変更の議論で書き足りなかった部分を、若干、補足させて頂く。ここでは残りの論点を4つに整理してみた。。

(1)集団的自衛権の行使として、容認される範囲のコンセンサスについて

以前、岸信介元総理は国会の質疑の中で、「一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは、私は言い過ぎだと、かように考えています。」「他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている」と発言している。つまり、集団的自衛権は保持しているだけでなく、基地を貸し与えた時点で行使もしていると解釈していたのである。しかし、現在では基地の提供は集団的自衛権の範疇ではなく、したがって集団的自衛権の行使には当たらないと理解されている。もうひとつ別の逸話としては、結の党代表の江田憲司氏は集団的自衛権の行使は否定的であり、行使容認派の橋下日本維新の会共同代表との間で決定的な差があると言われている。しかし、そんなことにはお構いなしに政治的には近い関係にあり、実際には大きな意識の差がないと解釈されている。第1次安倍政権において有識者会議がまとめられた集団的自衛権の「4類型」では[1]日米が公海上で共同訓練中などに、米艦船が攻撃され、自衛隊艦船が反撃する[2]米国などに向かう可能性がある弾道ミサイルを日本のミサイル防衛(MD)システムで撃破する[3]国連平和維持活動(PKO)などで他国部隊が攻撃され、自衛隊が駆けつけて反撃する(駆けつけ警護)[4]PKOなどで自衛隊が外国軍隊を後方支援する、があげられる。ここで、上述の類型は有識者が現行の解釈において「グレーゾーン」と位置付けているものであり、例えば[2]などは江田氏は個別自衛権の範疇と見なして現在の憲法解釈の中でも可能だとしており、日本維新の会との合流があるとすれば、この様な解釈の中ですり合わせが行われるのかも知れない。ここで、私は素人なので論点を把握していないが、例えばPKO活動なども国連決議がある場合や国連決議を伴わない多国籍軍の場合などで意味合いは異なる。集団的自衛権に関する閣議決定をする前に、それが憲法解釈と照らし合わせたらどういう位置づけかという議論はできないかも知れないが、グレーゾーン以外にもどの様な類型があり、この様な類型が憲法解釈変更時にはどちら側(自衛権行使の可否)に位置するのかを明らかにするように政府に求める議論を展開することは可能なはずである。であれば、閣議決定を待たずに野党は国会論戦を挑むことは可能なはずであるから、閣議決定前に国民的な議論を展開することが出来る。多分、政府は今年中に行われる日米ガイドラインの見直しを意識しているだろうから、この様な論戦は与野党双方にとって有益なはずである。政治家やマスコミは、ごちゃごちゃ不毛な論争を吹っ掛けるのではなく、もっと真面目で積極的に、この様なコンセンサスの基盤づくりに努力して欲しい。

(2)最高裁判決までのタイムラグをどう捉えるのか

憲法解釈に対する日本国内の最高意思決定機関は最高裁判所であることは疑いもない。しかし、制度上の問題として最高裁には抽象的な違憲立法審査権は有していないらしい。直接的な利害関係の対立がある当事者が裁判を起こすまでは、最高裁側から能動的に違憲審査をすることはないということだ。つまり、憲法解釈変更や法律の成立の後、違憲判決が出るまでにはそれなりのタイムラグが生じてしまう。そこで、一部の人からは新たに憲法裁判所を設置し、そこで合憲性の審査を行うべきという考え方がある。しかし、最初に答えを言ってしまうと、憲法裁判所の設置には憲法改正が必要であり、短期的な意味では現実的な答えではない。さらに一説によれば、現在は憲法などのスペシャリストを内閣法制局に集めているから、この様な憲法裁判所が出来るとこれらの人がここで採用され、結果として現状の内閣法制局がチェックを行う現行制度と大差がないとも言われる。勿論、内閣の管理下にある内閣法制局と、如何なる権力からも独立した憲法裁判所では異なる判断を下すことは期待できなくもないが、内閣法制局の人員が「上司の言うことには逆らえない」と気骨のない人ばかりとは思えないので、その辺はあまり差がないのではないかと個人的には感じている。ただ、この様に最高裁判決までタイムラグが避けられない状況において、確実に違憲判決が出ないと確信できる基準に徹するというのは本当にベストな選択なのだろうか?例えば、過去に規制緩和の動きがあった時、これと同様な議論があったはずである。問題が起きることを嫌って、過剰に「事前規制」を張り巡らせて身動きが取れなくなった状況があった。そこで、その状況を活性化するために規制の緩和を行った。規制緩和の本質は「事後規制」であり、実際に問題を起こした業者を選択して罰則を与え、そこまでは自由に活動させるという考え方である。例えば車の利用を例に取れば、「交通事故の危険があるから誰も車に乗ることはまかりならない」という事前規制ではなく、所定のルールで免許証を所持していれば「基本的に車に乗ることはOK」という前提があり、事故を起こした人は免許停止などの事後のペナルティを与えるというのがその考え方である。憲法と一般の事例で大きな差があることは認めるが、熱物に懲りてナマスを吹く様な内閣法制局の判断が度を越すと、時代の変化から取り残されて、いまだに尊属殺人を合憲とし続けるようなことにもなりかねない。内閣法制局はスタビライザ的な機能が期待されるが、ハンドルを真っ直ぐに固定する機能とは違うことをどの様に考えるべきか、その辺の議論をもう少し深めて欲しいと思う。

(3)統治行為論について

先程も触れたが、憲法解釈の日本国内の最高意思決定機関は最高裁判所であり、タイムラグがあるかも知れないが最終的には最高裁で決着される問題である。昨日のブログでも引用した荻上チキSession22のポッドキャストに出演した元内閣法制局長官で弁護士の阪田雅裕氏や、首都大学東京准教授で、憲法学者の木村草太氏などは、このタイムラグの後に違憲判決が出たときのインパクトを強調し、だからこそ安倍総理のやろうとしていることは間違っていると断じていた。しかし、この様な視点に立つならば、自衛隊の設置を決めたり日米安保を決めたりしたときには、この様な違憲性のリスクを少なくとも感じていたはずである。しかし、実際の最高裁判決はどうであったかと言えば、憲法判断を避けた事実がある。Wikipediaで「統治行為論」を検索すれば、「統治行為論(とうちこういろん)とは、“国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう。裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多いが、理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではない。」とある。つまり、今回の憲法解釈の変更の範囲が、先ほどの類型の中で「国連決議がないにもかかわらず地球の裏側まで出かけて行って、同盟国の戦闘に協力する形で他国の領土に進行して戦闘行為を行う」までをカバーするならばどうか知らないが、少なくとも上述の類型の[1]~[3]程度の範囲であれば、最高裁は統治行為論を盾にして憲法判断を避ける可能性が極めて高いのではないかと思われる。その範疇であるならば、上述の(3)の議論として「剥きになってハンドルをロープで縛って固定するのではなく、スタビライザは有効に活用しながらもハンドル操作の自由は確保する」という考え方は成り立つと思う。

(4)「選挙で勝てば、何をやっても許されるのか!」という批判について

安倍総理は衆議院予算委員会で「(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と発言し、これをマスコミや野党はこぞって批判をした。中には与党自民党でもこれに噛みつく議員もいた。これを称して朝日新聞は社説で「それでも法制局は、政府内で『法の番人』としての役割を果たしてきた。首相答弁はこうした機能を軽視し、国会審議の積み重ねで定着してきた解釈も、選挙に勝ちさえすれば首相が思いのまま変更できると言っているように受け取れる。」と主張する。ちょっと待ってほしいのは、「選挙で勝てば何をしても良い」と「(正しいと信じて行動し)その上で選挙で審判を受ける」とはベクトルの向かう先は全く異なっている。つまり、「選挙」を終ったことと捉えるか、この先に控えているものとして捉えるかの差である。経済活動で例えるなら、前者は社長になればコンプライアンスも何も気にせず何をしても良いと開き直る発言であり、後者は社長になった自分の行動をマーケットは注視しているからそれに応えるよう全力で取り組むと言っているのに近い。社長になったという事象を過去のことと捉えるか、社長になった後のマーケットの反応を未来のことと捉えるか、そんな違いである。常識的な日本人であれば、その違いは誰にでも分かることであり、安倍総理が思ってもいないことを恣意的に社説まで使って吹聴し、その結果としてこれまでに述べてきた様な上述の論点をはぐらかすのは如何にも稚拙である。

(昨日のブログを含めて)以上が、私の考えたポイントである。素人考えなので問題もあるかと思うが、せめてこの程度までは日本の政治家、ジャーナリズムも考えて欲しいものだ。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます