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イラン 出光日章丸事件

2019年06月08日 | 社会
イギリスの影響下にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本の元にあり、イラン国庫にも、国民にも利潤が充分に回らない状況にあった。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執行するイギリスにイランは態度を硬化させた。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。
一方日本は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカなどの連合国による占領を受け、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自のルートで石油を自由に輸入することが困難であり、それが経済発展の足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産社長の出光佐三は、イランに対する経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を派遣することを決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉者として専務の出光計助を1952年に極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。
イラン側は、合意しても貿易できないでいる前例と、当時中小企業に過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたという。長い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて、日章丸は1953年(昭和28年)3月23日午前9時、神戸港を極秘裏に出港する。
イギリスを始めとする、連合国軍による占領下の日本において連合国軍最高司令官総司令部によって義務付けられていた正午報告(位置報告)に罰則規定が無いことを見つけ、それらを行わず、航路も偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランに到着。この時点で、世界中のマスメディアに報道され、国際的な事件として認知された。日本においても、武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の海軍力を誇っていたイギリス海軍に「喧嘩を売った事件」として報道され、連日日本では新聞の一面記事で報道された。
4月15日急ぎ石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避する事に成功し、海上封鎖を突破して5月9日9時に川崎港に到着した。英・石油メジャーのアングロ・イラニアン社(BPの前身)は、積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴し、同時に出光に対する処分圧力が日本国政府にもたらされた。
しかし、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカ合衆国の黙認や、快哉を叫ぶ世論の後押しもあり、行政処分などは見送られた。裁判でも出光側の正当性が認められ、5月27日仮差押え処分の申し立てが却下され、アングロ・イラニアン社は即日控訴するものの、10月29日になって提訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝利に終わった。これが世界的に石油の自由な貿易が始まる嚆矢となった。
なお、イラン産石油の輸入は、この事件が石油メジャーの結束強化を招いたこともあり、1956年(昭和31年)に終了することになった。