一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

ジャック・デリダ『声と現象』(1967)

2013年02月17日 | 現代思想

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ポスト構造主義の代表的思想家ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の語る『脱構築(deconstruction)』とは、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』から着想を得たもので、一義的な内容を示すとされるテキストの意味作用(歴史的に構築された二項対立図式)を相対化するということである。

デリダの脱構築は、二元論的なイデア思想を掲げたプラトン以来のロゴス中心主義を批判する文脈で提起された概念で、パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)、現象界とイデア界といった価値序列を示す二項対立図式を反駁するものである。伝統的な形而上学に必ずついて回る仮象と実在、現象とイデア、主観と客観、善と悪といった価値判断を伴う二項対立図式(二元論的世界観)の反駁と否定が脱構築の概念が及ぼす作用である。ジャック・デリダがポスト構造主義の思想家と呼ばれるのは、構造主義が前提としていた『客観的な一般的構造』の存在さえも脱構築した上で、新たな形而上学の構築を指向したからである。構造主義で解明される一般的構造や関係は、ポスト構造主義の文脈では一義的なものではなく多義的で改変可能なものとなる。

ある真理・価値を表現したエクリチュール(文章)には、書かれた内容とは正反対の意味(立場)が内在しているとする相対主義的な認識の視座が脱構築にはある。ある価値観が正しいとするエクリチュールの解釈は、その価値とは矛盾(対立)する立場から多義的に解釈することができ、書かれた内容そのものから一義的な意味を確定することは出来ない。Aという意味を指示するテキスト(エクリチュール)には必然的にBという矛盾する意味が存在する。テキストに内在するパラドックス(逆説)を脱構築は指摘して、エクリチュールにおける『超越論的なシニフィエ(意味されるもの=真理)の不在』を示したのである。

認識論の観点では、デリダは『声と現象』という著作で、エドムンド・フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)の現象学にある『客観的な現象』の本質直観を批判している。意識に生起してくる現象をエポケー(判断停止)して、客観事象のありのままの本質を捉えるというフッサールの現象学的還元に、デリダは形而上学的独断を見出して『純粋なありのままの意識内容』を特定することは不可能であるとした。

フッサールは時代・地域・個人を超越した普遍的で一般的な『厳密学』としての哲学を構想したが、デリダは意識や事象に言及する『言語=記号』の代理性・再現性の特性によってフッサールの厳密学は挫折せざるを得ないと考えたのである。つまり、ありのままの事象だとか純粋な意識内容だとかいうものを言葉を用いて表現しようとする時には、必然的に『言語と事象・意識の間の差異(ズレ)』が生まれる。

人間は、ありのままの客観事象や意識経験を、言語を用いて直接的に表現することはできないというのがデリダの批判である。ありのままの世界や意識という『起源=真理』は、言語を介して変質し、時間を経過して変化する。それ以前に、人間の言語機能を介さない認識(知識)の共有は有り得ないのだから、この社会に生きる誰一人として『ありのままの純粋な世界・意識という真理(起源)』には到達することが出来ないのである。

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