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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

連合赤軍事件 1972.2.26

2013年02月04日 | できごと

1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件あさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。

山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害した。また、日本共産党革命左派神奈川県委員会は、連合赤軍結成以前に党を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。

あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、某企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした人質篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。

連合赤軍メンバーは、クアラルンプール事件の際に超法規的措置で釈放・国外逃亡し、2010年現在も国際指名手配されている坂東國男と、拘置所で自殺した最高指導者の森恒夫を除き、15人のメンバーに判決が確定した。

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三島事件1970年(昭和45年)11月25日

2013年01月31日 | できごと

三島事件(1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。

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徳仁親王・小和田雅子1993年(平成5年)

2013年01月31日 | できごと

親王妃候補の一人となった雅子だが、母方の祖父・江頭豊が四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こしたチッソの社長であったことが問題視された。江頭は水俣病発生時には社長ではなかったものの、その問題解決に当たり、患者への補償を拒否するなど、問題の解決に積極的ではなかった。水俣病の発生源を有機水銀とは別のものであると強弁した。また、会長在任中の1972年1月7日には、チッソは千葉県五井工場において自主交渉派患者の取材を行っていたアメリカ人写真家ユージン・スミスらへの暴行事件を起こした。後藤田正晴が「皇居に筵旗が立つ[」と発言。1988年(昭和63年)初頭には当時宮内庁長官だった富田朝彦も、「チッソの件が付随しますのでお諦めください」と進言したなど、宮内庁にも慎重論があり、多くの関係者がこの結婚に対して反対したことが伝えられている。徳仁親王自身は1988年(昭和63年)2月の誕生日記者会見で、結婚について「七合目、八合目ぐらいといったところでしょうか。山頂は見えていても、なかなかそこへたどり着けないという感じなんじゃないでしょうか」と語った。

1993年(平成5年)に小和田雅子結婚の儀を挙げ、2001年(平成13年)に長女・敬宮愛子内親王をもうけた。

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明仁親王・正田美智子1959年(昭和34年)4月10日

2013年01月31日 | できごと

1959年昭和34年)4月10日の、いわゆる結婚式(「結婚の儀」「御成婚」)と、実況生中継されたパレード(ご成婚パレード)で、ミッチー・ブームは頂点に達する。皇居から渋谷の東宮仮御所までの8.18キロを馬車、あるいはロールス・ロイスオープンカーが目抜き通りを走るパレード沿道には、53万人の群衆が詰めかけた。皇室ジャーナリストの渡辺みどりは宮内庁を出し抜き、東宮御所の空撮に成功したという。

パレードに先立ち、テレビのメーカー各社は競って宣伝を行なったため消費者は実況生中継を見ようとし、テレビの売り上げが急伸、パレードの一週間前に NHK の受信契約数(いわゆる普及率)は、200万台を突破。またテレビ製造メーカー、週刊誌各社は大量消費社会へのテイクオフ(離陸)を果たし、テレビコマーシャルや週刊誌の消費が伸びる契機となった。

日本の経済、ファッション、マスメディアなどの変遷を語る上でエポックとなった空前のミッチー・ブームが起きたちょうどそのころ、日本の経済岩戸景気に突入し、高度経済成長時代を迎える。マスメディアはその後も彼女の皇太子妃としての生活――第一子(浩宮)誕生、第二子(礼宮)誕生、子育て――などの様子を頻繁に取り上げ、美智子妃は国民にとっての「象徴」としての役割、すなわちいわば「憧れ」の対象としての地位を確立してゆく。政治学者松下圭一は、これら一連の「ミッチー・ブーム」社会現象を切り口にして天皇制を分析した著作「大衆天皇制論」を1959年昭和34年)に著している。2005年平成17年)出版のDVDブック「昭和ニッポン」(第8巻『美智子さまブームと東京タワー』など全24巻)を共同執筆した横浜市立大学助教授の古川隆久は、ミッチー・ブーム前後のメディアの皇室報道を検証して「逆説的ですが、民間人出身の皇太子妃が誕生したことで、国民は皇室との距離を実感してしまったのではないか」と分析している。

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自由民権運動

2013年01月27日 | できごと

自由民権運動とは、明治時代日本において行われた政治運動社会運動。

従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。

1873年(明治6年)、板垣退助征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(明治六年政変

下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎江藤新平副島種臣らと愛国公党を結成、有司専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知立志社を設立する。この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになる。翌1875年(明治8年)には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。

江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。

従来の戦後歴史学では、民権派=民権論、政府=国権論として捉えられてきた。近年、高知大学教授の田村安興らの研究によって、土佐の民権派においても国権は前提であったことが示されている。田村の研究によって、従来、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきたことが誤りとなった。事実、板垣らは征韓論を主張したのであり、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。その理由として、田村は自由民権運動が国学以来の系譜の延長線上にあるからとしている。

このような研究をふまえ、田村は、自由民権運動は民主主義的な運動であるというよりも、むしろ近代日本にナショナリズムを定着させる下からの愛国主義運動だったとの見方を提出し、征韓論争から壬午・甲申事変にいたるまで、対外的には民権派がよりタカ派的であって、彼らこそが急進的ナショナリズムの担い手であったことを論証している。


ユーゲント・シュティール

2013年01月23日 | できごと

ユーゲント・シュティール(Jugendstil )は、1896年に刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend )に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「青春様式」と表記されることもある。19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、絵画や彫刻のほかにも、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などに取り入れられた。

アール・ヌーヴォー(フランス語: Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築工芸品グラフィックデザインなど多岐に亘った。

第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカでアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義モダニズムの架け橋と考えられるようになった。ブリュッセルリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。

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柏鵬時代

2013年01月19日 | できごと

大相撲の第48代横綱で同じく名横綱の柏戸と「柏鵬時代」と呼ばれる黄金期を築いた元横綱大鵬の納谷幸喜さんが19日午後3時15分、東京都内の病院で死去した。72歳だった。

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Kashiwado Tsuyoshi (柏戸 剛, November 29, 1938 - December 8, 1996) was a sumo wrestler from Japan. He was the sport's 47th Yokozuna, fighting at sumo's highest rank from 1961 to 1969. After his retirement he became an elder of the Japan Sumo Association and ran his own training stable from 1970 until his death.

Taihō Kōki (大鵬幸喜, born May 29, 1940 as Kōki Naya; died January 19, 2013) was the 48th Yokozuna in the Japanese sport of sumo wrestling. He is generally regarded as the greatest sumo wrestler of the post-war period. He became a yokozuna in 1961 at the age of 21, the youngest ever at the time, and he won a record 32 tournaments between 1960 and 1971. His dominance was such that he won six tournaments in a row on two separate occasions. He is the only wrestler to win at least one championship every year of his top division career, and he has the highest career winning percentage of any wrestler in the modern era. After his retirement he was the head coach of Taihō stable.


初雪(2013年1月14日)

2013年01月14日 | できごと

   成人の日である2013年1月14日は、太平洋側を中心に朝から荒れ模様の天気となっている。前線を伴う低気圧の影響によるもので、関東地方では強い風と雨、またところによっては「初雪」が降るところも出ている。

   すでに横浜地方気象台が「初雪」を発表したほか、ネット上では東京など関東各地から初雪を報告する投稿が上がっている。(追記:東京都心でも午前10時20分、初雪が観測された)なお、東京の2012年の初雪は1月20日だった。

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34th G8 summit in Tōyako(July 7?9, 2008)

2013年01月11日 | できごと

The 34th G8 summit took place in Tōyako (洞爺湖, Tōya-ko?, Lake Toya) on the northern island of Hokkaidō, Japan from July 7?9, 2008.[1] The locations of previous summits to have been hosted by Japan include: Tokyo (1979, 1986, 1993); and Nago, Okinawa (2000). The G8 Summit has evolved beyond being a gathering of world political leaders. The event has become an occasion for a wide variety of non-governmental organizations, activists and civic groups to congregate and discuss a multitude of issues.

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靖國神社

2013年01月05日 | できごと

明治2年(1869年)6月29日 東京招魂社として明治天皇の命により建立。

戊辰戦争(1868年)の明治政府軍の戦没者を祭る為に創立された。そのため怨親平等の思想はない(→鎮霊社)。

明治12年(1879年)に「靖國神社」(靖国神社)と改称。

1959年に厚生省祭神名票に基づき最初のA級戦犯を合祀。

1967-78年に昭和殉難者として東条英機東京裁判のA級戦犯14人を合祀。

A級戦犯を合祀したことで、1985年の中曽根首相公式参拝以降、閣僚の参拝がしばしば外交問題となって来た。

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International Military Tribunal for the Far East (April 29, 1946)

2013年01月04日 | できごと

The International Military Tribunal for the Far East (IMTFE), also known as the Tokyo Trials, the Tokyo War Crimes Tribunal, or simply the Tribunal, was convened on April 29, 1946, to try the leaders of the Empire of Japan for three types of war crimes. "Class A" crimes were reserved for those who participated in a joint conspiracy to start and wage war, and were brought against those in the highest decision-making bodies; "Class B" crimes were reserved for those who committed "conventional" atrocities or crimes against humanity; "Class C" crimes were reserved for those in "the planning, ordering, authorization, or failure to prevent such transgressions at higher levels in the command structure."

Twenty-eight Japanese military and political leaders were charged with Class A crimes, and more than 5,700 Japanese nationals were charged with Class B and C crimes, mostly entailing prisoner abuse. China held 13 tribunals of its own, resulting in 504 convictions and 149 executions.

The Japanese Emperor Hirohito and all members of the imperial family, such as career officer Prince Yasuhiko Asaka, were not prosecuted for involvement in any of the three categories of crimes. Herbert Bix explains that "the Truman administration and General MacArthur both believed the occupation reforms would be implemented smoothly if they used Hirohito to legitimise their changes." As many as 50 suspects, such as Nobusuke Kishi, who later became Prime Minister, and Yoshisuke Aikawa, head of Nissan, were charged but released in 1947 and 1948. Shiro Ishii received immunity in exchange for data gathered from his experiments on live prisoners. The lone dissenting judge to exonerate all indictees was Indian jurist Radhabinod Pal.

The tribunal was adjourned on November 12, 1948.

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世界平和アピール七人委員会(1955)

2012年12月31日 | できごと

世界平和アピール七人委員会は、知識人による平和問題に関する意見表明のための会である。略称は七人委員会(しちにんいいんかい)。

世界平和アピール七人委員会は、政治的な党派に無関係な立場で世界に平和を訴える会として知られている。

1955年11月11日平凡社社長・下中弥三郎の提唱によって結成された。結成時の委員は下中弥三郎・植村環茅誠司上代たの平塚らいてう前田多門湯川秀樹である。

2010年現在の7人の委員は、武者小路公秀土山秀夫大石芳野辻井喬池田香代子小沼通二池内了となっている。

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