稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.67(昭和62年6月14日)

2019年09月10日 | 長井長正範士の遺文


○腰の刀について(№26の加筆)今年の2月6日(金)朝、皆さんにお渡しした分です。
1)腰の力によって大きく構えられる。
2)腰の力によって尻べた、太ももに及ぼして発達する。
3)腰の力が入っておれば相手が攻めて来ても、ぐっと応じられるものである。
(この時は、ほんの瞬間であるが、とめ息すること、以前話をした通り)
4)腰で歩くこと。

この腰の大切さは前に話した通りであるが、人間が歩く姿を面白く
三つに分けて申し上げたことをここに改めて書いておく。
1)昔の侍は腰で歩く。
2)暴力団は肩で歩く。
3)芝居の役者は柔らかく歩く。

我々剣道を修行する者は腰で歩くよう心がけねばばらない。
又、へそを前に出すようにして歩けともいわれている。
禅で「歩々是道場」といわれているように、歩くにしても日常茶飯事すべて道場である。
剣道は屋内の板床で修錬するだけがすべてと考えるのは大変狭い考えである。
こんな時代になれば余計道場の中の剣道だけでは視野が狭く日常生活にほど遠く、
人間形成に余り役に立たない。

この「歩々是道場」で剣道を志す者はかくあるべし、
という昔の実話があるので、ついでに書き留めておきたい。

私が国士舘で修行していた時、よく斎村先生宅へ行き、
ある日、こんなお話を聞いたことがある。

斎村先生が大島治喜太先生と二人で北陸方面を武者修行して廻られ、
富山県の富山円という先生のところへ行って、ご指導をお願いしたのであるが、
なかなか直接指導して頂けないので、いらいらして、思い切って先生に、
毎日ご歓待頂くばかりで、直接先生からご指導頂けないのは何故ですか
とお伺いしたら、富山先生は「あんたらのはいている下駄を見たら稽古はつけられん、
下駄の裏をよく見てごらん、外輪にして歩いているもんだから外側が減っておる。
剣道の足運び、あれでいいのかね。足もとの基本からやり直し、道を歩くのも、
この心がけで眞っすぐ歩くようにいつも心得修行してゆく、これが剣道家の大切なところ、
一歩一歩歩くのも道場と心得ないような者には稽古はつけられん」といわれたそうである。

それ以来、。斎村先生は眞っすぐ、スッスッと静かに歩かれるようになったのである。
この先生のお話を直接聞いて成程と感銘を受け或る日、朝稽古のあと先生の
おはきになっている下駄の裏をぬす見して驚いたことに眞っすぐに前の歯、
後ろの歯共に同じ低さに減っているのである。

それからいつしかそんな事を忘れていたが此頃になって一刀流をやり出してから
特に靴のかかとが眞っすぐに減るように歩くことを心がけている次第である。

それにつけても、思い出されるのは、朝げいこで私共が始まる前に整列して
じっと正座してお待ちしておると、師範室から斎村先生、大島先生、岡野亦一先生、
小野十生先生、小川忠太郎先生方が静々と足音立てずじ、入場され、
私共の前に順次に座られた事が、今でも克明に思い浮かぶのである。

その時の斎村先生の歩まれるお姿は「美しい」ひと事である。
具体的に申し上げると勿論腰で歩かれ、足の踏み方は、かかとから絶対に踏まれてない。
むしろ足の前のたなごころからスッとおろされ、
それが何んとも言えない眞っすぐな歩み方であった。

先生のお稽古の足運びは勿論その通りであった。
先生には余り技はなく、何んの変哲もない、お方のように思ったが、
初めて先生にかかっていった時、それはそれは大きく、遠く、頑丈で、
丁度うどの大木に(№68に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする