稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.21(昭和61年1月10日)三十、四十、七十、と言うこと

2018年09月04日 | 長井長正範士の遺文


○三十、四十、七十、と言うこと
一度テレビのクイズに出しても面白いと思うのですが、これは年齢を表しているのです。
即ち、三十才、四十才、七十才で果たして何を意味した年齢であるのだろう。
それは三十才は相撲の限界、四十才は柔道の限界を言い、七十才になっても尚、
出来るのが剣道であると言う数字を表しているのである。

そして剣道は七十才台に入って、剣が益々冴え、八十才になっても、立派な稽古が出来る。
これが本物の剣道であると言えよう。

このように考えてみると、すべて肉体的な力の鍛錬には限度があり、
(例えば若い時、米俵を高々と持上げても六十才過ぎて、
これを持上げられるだろうか。それは出来ない)これに対し精神鍛錬は無限である。

如何に剣道には力よりも精神の鍛錬の方が大切かが判る。
力も技のうちと言うような相撲や、現在の柔道とは自ら違うのである。

特に剣道では精神的な無形の力が術(註)をあみ出してゆく。
そしてその術から道へと昇華され本物の剣道に入ってゆくのである。

これを考えずして、よい年をして、若い時と同じように、(自分の調子で、
どんと踏み込んで打っていったり、スピードで叩き合いしたり、腕力で
打ち勝とうとする等)力にたよった剣道をする者は長続きする筈がない。
(ここのところは№3、№10を参照されたし)

 (註) 術とはたね明かししたり、なぜそんな不思議なことが出来るのかと
    口頭で説明を聞いたりして、何んだそうかと簡単に思って、
    いざ、自分がやってみると、そうはうまくゆかない。

    即ち長年の間、鍛錬した賜ものによって体得したものを術と言う。
    世に奇術、魔術、忍術、馬術等、術のつくもの皆それである。
   (術は目に見えぬものである。)

○心の鍛錬について
鍛錬は憂い、嘆き、悲しみ、嫉妬の罪悪の心を打ち沈めてゆく。(宗教では我を捨てる)
そしてあらゆる迷いの心を肝を錬ってなくす。(№2参照のこと)

この肝を錬るために形をやるのである。形はかたちではない。形には名称がある。
その名称をつけられた精神を具現してゆく。古流の形を鍛錬すれば心が動揺しない。
自源流(粕井註:自顕流、もしくは示現流か?)は砂の上を走って足あとがつかない迄修業すると言う。
正林寺拳法(粕井註:少林寺拳法か?)は水の上を走れるまで修業すると言う。

いずれもここまでいかなければ本物をつかめないだろう。
道は深遠にして生涯極めつくし難し。死ぬ迄修業である。

○構えの手足のバランスについて
剣道の正眼の構えで竹刀を持った両拳の巾が、両足のつま先の巾と同じであること。
槍やなぎなたの構えも然り、巾広くまたがっただけ両拳の巾も広く同じである。

ここが大切で背の高いコンパスの長い者はそれなりに手足の巾が等しく広いのは当然で、
腰を中心としたバランスの動きが大切で、アンバランスは心身の鍛錬につながらない。完
コメント
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