キャロムの世界では、大昔から
ディフレクションを抑える為に
先角を短くして先端を軽量化さ
せる事は常識的に行なわれてい
た。
また、ジョイントも振動の振幅
を最小にするためにオスもメス
も木ねじで作られていた。
そして、振り抜きの鋭さを得る
目的で、キューの総重量は16オ
ンス程の軽量かつ短めのキュー
だ。
特化されたキューは種目ごとに
存在する。
キャロムでも四つ玉やボークラ
イン用とスリークッション用で
はシャフトのテーパーが異なる。
ポケット・ビリヤード用のキュー
も、全長、重量、構造はキャロム
用とはかなり異なる特化物だ。
また、英国ポケット・ビリヤード
であるスヌーカー用のキューも
スヌーカー競技に適正化された
特化物であり、他のビリヤードの
キューとは相当異なる構造になっ
ている。
スヌーカーのキューは、ビリヤード
キューのかなり原初的な古い部分
を残す作り込みとなっている。
未だに旋盤を使わずに削り出す
工法もまだ残っている。
現代は、アメリカン・ポケット・
ビリヤードが全世界で一番人気
がある。
ビリヤードとは本来キャロムの
事を指したが、今やアメリカン・
プールがビリヤードの代名詞の
ようになった。
だが、本来ビリヤードという語
がキャロムの事を指してはいて
も、玉撞きの最初はゲートボール
のようなゲート通しだった。
それが野外から室内競技に変化
発展しても、何百年も台上ゲート
くぐり競技のまま続いた。
やがて18世紀になって、台上に
穴を設けて、ゲートを潜らせて
さらに穴に入れる競技に変化し
た。
そして、やがてゲートは無くなり、
穴入れ競技となる。
そこから穴を無くして玉と玉を
当てる非常に難しいゲームとな
った。
一方、穴入れ玉撞きは独自に独立
して別な玉撞きとして発展した。
ヨーロッパ人がアメリカに持ち込
んだビリヤードは、アメリカでは
最初ヨーロッパと同じ赤白玉を
穴に入れるゲームだった。
これは1861年の第一回全米選手権
でもその競技だった。
オールのような形のメイスという
道具から棒状の柄の部分が分離し
た「キュー」が登場した頃だ。
だんだんキューの人気が広まり、
メイスはビリヤードの世界から
消滅して行った。
完全にキューのみで玉撞きが
キャロムだろうとポケットだろ
うと行なわれるようになったの
は、日本の歴史にあてると、丁度
最幕末の頃からだ。
ただし、玉撞き自体は日本には
1600年代の初頭には入って来て
いる。
西洋人のカピタンたちがもたらし
た。
しかし、西洋人しか競技せず、
日本では日本人がやるようになっ
たのは、明治新政府樹立以降だ。
攘夷どこ吹く風の明治新政府の
急激な西欧化の政策の中で、日
本人は撞球をやるようになった。
明治貴族や富豪たちの舞踏会で
有名な鹿鳴館にも撞球室が設け
られ、6台のビリヤードテーブル
が置かれた。
英仏式のキャロム台だ。
また、皇室では撞球が国際的(西欧
的)な素養の一つとして嗜まれる事
が行なわれ、明治の華族、士族、
富裕層もこれに倣った。
天皇の避暑地や御所には撞球台が
置かれ、岩崎邸をはじめ各元勲の
屋敷には撞球室が作られた。
一般庶民もビリヤードに大いに
親しみ、都心部では洋食屋には
撞球台、というような環境が広
まり、同時に撞球場という専門
のビリヤード場も街中に多く登場
した。
さらに大正デモクラシーの頃に
日本の撞球文化は大衆的に爆発
高揚し、銀座などはまさにビリ
ヤード銀座という景色になった。
帝都のいたる所に玉撞き場ができ
たし、地方都市もそれに続いた。
戦争によりカフェやビリヤード
パーラーは規制衰退したが、戦
後にはまた日本人の玉撞き好き
が大手を振って堂々と体現でき
る時代がやって来た。
だが、国内での主力は1987年
まではずっと四つ玉だった。
四つ玉のさらに上級者はスリー
クッションをやった。ビリヤード
競技の中で一番難しいのがスリー
クッションだ。
これは世界チャンピオンでも50
点撞き抜きなどはできない。
四つ玉では1000点撞き抜きは
結構ある。
また、アメリカン・プールでも
連続500個ノーミス入れ続けと
いうのはある。
だが、スリーは1キューで25点
撞き切りを毎回出せたらインター
ナルチャンピオンになれる程に
難しい種目なのである。
ビリヤードは各種目が総じて
簡易ではなく、一定の技術を
持っていないとプレーになら
ない競技だが、スリークッション
こそはビリヤードの頂点、撞球
王の種目であるといえる。
キャロムキューは独自の進化を
遂げたが、物理的な特性をよく
吟味して構造は進化した。
その進化の実態はアメリカン・
プールキューよりもかなり早い
時期に完成域に入っていた。
ポケットのほうが途中から妙
な変化をして進化が一時停止
していた。
そして、最近、ここ20年ほどで
またポケットキューの構造変化
が動き出したのだが、えげつない
商業主義によって、その基軸は
歪んだ路線となっている。
良い物を作るのではなく、物を
売らんがなが第一義とされる
姿勢で「消費商品」としてビリ
ヤードの道具が作られ始めたか
らだ。
主としてその流れは世界の中で
日本人が作った。
バブル経済の頃に海外の土地や
名画を買い漁ったエコノミック
アニマルの復活だ。
褒められたもんじゃない。
売らんがな主義は、それより
強い売らんがな主義に負ける。
日本のオートバイがもはや世界
トップの開発製造力が消滅して
この先日本は二輪の製造や世界
選手権から撤退するであろう
事と同じく、やがて日本のビリ
ヤード界も衰退、消滅して行く
事だろう。
中国にすべて負けて。
日本人がモノヅクリの大切な事
を忘れ、別な目的を第一義とし
て、反省も自省もせず、このま
ま進めばそうなる。
現に多くの産業、文化、学術、
知的活動、社会意識部分でそう
なって来ている兆候が随所にみ
られる。
この国は、あと100年続かない
かも知れない。