渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

天神峡

2021年07月28日 | open


天神峡。岡山県井原市芳井町。
















古刀備後三原鍛冶の末裔は備中青江鍛冶
の流れの一つと合流して安土桃山以降の
新刀期の鍛冶流派を形成した。
日本史における歴史区分と日本刀史に
おける区分は合致しておらず、日本史に
おける近世の開始の織豊時代は、日本刀
の世界ではまだ「古刀」という期間に分類
する。
「新刀」の開始は慶長以降というのが
日本刀界での定義となっている。
また、日本刀界の概念的区分では、桃山
文化というのは江戸初期まで流れ込む。
そのため、刀装具などでは製作時代は江戸
時代初期であっても、桃山文化の範疇と
して規定する作品群がある、という事に
なる。
そもそも歴史とは、現代の学校の学年の
年度替わりのようなきっちりした区分な
どは存在しない。連綿とした時間の流れ
があるのみなので、時代区分分けは全て
後世の「定義づけ」でしかない。

古刀三原鍛冶と青江鍛冶が合流して形成
された鍛冶集団に苗字を大月とする一族
がいる。
備中国水田に住した。
そして、鍛冶銘を国重と名乗ってから四代
目の国重から作法をそれまでの備後備中伝
から相州伝に転じた。
新刀水田派の一部は大阪や江戸にも移住
して駐鎚した。それのみか、各地を古代
鍛冶のオロチ=オロチョンよろしく転々
と周遊して鍛刀した。
また、備中本国でも水田鍛冶は幕末まで
存続した。苗字は大月のままだ。
幕末には大月源という記録上史上初の
女性鍛冶が誕生している。
幕末の大阪の水田派の池田鬼神丸国重は、
新選組の斎藤一も愛刀としていたとの説
もある。

今では信じがたい事だが、江戸初期の水田
国重のうち、大月与五郎の国重作は大与五
と呼ばれて、江戸期の古剣書を見ると虎徹
興里よりもずっと高額で売買されている。
それほど、出来栄えの良い利刀を水田派は
作っていたのだろう。
一方、幕末の水心子正秀は、水田国重派
を蛇蝎のように嫌っていたフシがあり、
各地で水田国重が折損したという情報を
集めまくって弟子たちと共に嘲笑し、それ
の侮蔑ぶりを記録(刀剣実用論)に残してい
る。正秀、人的性格がかなり悪い。
高邁ぶっていても、弟子に執拗に金の無心
を繰り返していた人物が水心子なので、
推して知るべし、なのだが。
刀鍛冶の中にも、弟子の妻を寝盗ったり、
弟子に自己が属するカルト宗教への入信
を強要したり、執拗なパワハラをしたり、
他人の作の刀で鉄斬り成功とねつ造したり
等、ろくでもないのはいつの時代でも大勢
る。
一方、馬鹿なの?という位に馬鹿正直な
生真面目な刀鍛冶たちもいる。

水心子正秀の場合は、折損事故のあった
国重が果たして正真かどうかの真贋鑑定
など抜きにして、そうした事をやって喜
んでいた。
薩摩藩などはそれを盲信し、家中に水田
国重の所持を禁じた程だった。
虎徹でさえ、存命中にすでに贋物が出回っ
ていた程である。虎徹よりも高額取引され
ていた水田国重の擬物が大量に存在した事
は類推としてまず確実だろう。

しかし、そうした「水田国重は折れ易い」
とする水心子がねつ造した創作話を打ち
消すように、幕末のある志士は断じた。
「国重は折れ易いというが、それがしの
国重は刃ささらの如くなりしも一向に折
ず」と。
実際の剣戟の斬り合いで散々使ってもその
国重は折れはしなかったという事実を示し
た。多分、正真物なのだろう。
また、新選組の斎藤一が池田鬼神丸を使用
していたというのが事実ならば、やはり、
実戦刀として不足は無かった事にもなる。
ちなみに、我が家の家伝刀には備中水田
の山城大掾大月伝七郎源国重作の水田国重
と個人名不詳の水田国重がある。
その国重は、戦後、私の叔父が玩具にし
て、城下からほど近い野山に行って散々
木の枝を切断する切り遊びをした、とい
う。刀身は何ともなかったとの由。
ナカゴ部の重ねは9ミリ程ある。

「水田国重が折れ易い」というのは一概
には言い切れない。
水心子のフレームアップのねつ造恐るべ
し、という実態が実は歴史の中であっ
のではなかろうか。
もしかすると、あたかも日本全国鍛冶宗匠
のような立場にあり、日本刀の製作方法が
途絶えていた時期に全国鍛冶が正秀に弟子
入りしたが、備中水田一門はなびかなかっ
たので、その腹いせかも知れない。
とにかく、執拗に水田国重のみを狙い撃ち
にして水心子正秀は排撃している。記録を
読むと、その尋常ならざる異様さが浮かび
上がって来る。
まあ、現代でも似たような事はあるんです
けどね(笑

その備中水田国重一門が新刀期に住した
場所(現在の岡山県井原市)から10km程
北に上がった所に小田川上流の天神峡が
ある。
さらに上流には「三原」なる土地があり、
付近には鉱山もある。
ここいらも赤目(あこめ)砂鉄の産地だ。
赤目は出雲の真砂砂鉄よりも刀剣作製に
質性が良いのでは、と私は踏んでいる。
備前、備中、備後の刀剣が中世において
実用的に極めて優れた利刀でならしたの
は、原料にも大きなファクターがあった
のではと私は推察している。

そして、かなり瞠目するのが東北の鐵だ。
質性が全く出雲とは異なる。
現代刀鍛冶たちは、日刀保たたらの商品名
「玉鋼」という砂利のような鋼でよく刀の
形にできるなあと感心する。
実際に切る事を一切想定していない現代
美術刀剣という戦後の新ジャンルに属する
からできるのだろうが。
現実的には包丁の刃先のようになり、簡単
に現代刀は折損する。むしろクズ鋼と見下
されている日刀保B2鋼のほうが斬鉄刀が
出来たりする。
これは、金属的に素晴らしい出雲の鋼の
普及によって日本刀が一気に変容して刀剣
としての実用性を著しく欠いた現象が発生
した新刀初期の再現ともいえる。
今の和包丁の刃先はすぐ欠けるでしょ?
それには意味があるんです。物理的、金属
学的な。
介在物は「不純」ではないのよ。特にα系
介在物は。それに方位性を持たせて連結
させると、コンクリート建築の鉄筋と同じ
になる。アンコで別鋼を中にいくら入れて
も刀は駄目なのよ。鋼その物が純過ぎる
と。
土壁だってシュロを中に入れないと崩れて
しまうんだしね。

斬鉄剣作者刀工小林康宏が作刀に用いる
鐵の一部。自家製鐵。




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