実は私、バイク屋作ってました。
アッキーさんのこのカラーリ
ングがめちゃくちゃカッコい
いと言うのに私は全面同意。
テック21カラーの一番最初の
実物を1985年鈴鹿サーキット
現地で観た。
プレイボーイ誌の仕事で鈴鹿に
行った時だった。
美しかった。
ただ、ケニー・ロバーツは最初
大文句言ったんだよね。
「レーシングマシンのカラーは
くっきりとした原色と相場が
決まってんだ。なんだ、この
色は。こんな寝ぼけた色は全く
速そうに見えない!」と。
でも、スポンサー(資生堂)の
製品のイメージカラーだからと
どうにか説き伏せて納得させた
という当時結構有名な逸話があ
った。
実際のところ、史上初のパス
テルトーンのモーターサイク
ルのレーシングマシンの色で、
世の人々の度肝を抜いたのは
確かだった。
そういえば、日本の化粧品会社
が二輪レーシングスポーツのメ
インスポンサーになる、という
のも業界初だったのではなかろ
うか。
そして、パステルトーンの藤色
のツナギとマシンに乗るケニー
と平忠彦選手はとびぬけてカッ
コよかった。
そうしたカラーリングが皆無
の時代だったので、かえって
逆にレースでは目立ちまくっ
ていた。
これは、スポンサーとヤマハ
のタイアップ戦略がばっちり
決まった感があった。
YZF750はヤマハが初めて作った
4ストロークワークスマシンだっ
た。
残念ながらワークスYZF750は、
デビューの1985年鈴鹿8耐は
マシントラブルでリタイア。
翌年1986年も、TECH21ヤマハ
の平選手も別チームから出場し
たケニーも共にリタイア。
ヤマハはまだ4スト二輪では未
完成領域が多かった。
だが、ヤマハはエンジン屋。
トヨタ2000GTや2TGの4ストの
エンジンを作ったのはヤマハ
である。
当時はカワサキとホンダとス
ズキの4スト優位をヤマハが崩
せなかったが、ヤマハは1985年
まで4ストワークスマシンを作っ
ていなかった。マシンを作って
いなかったのだから、国産他社
の牙城を崩しようにも崩せる方
法がなかった。
2スト二輪では圧倒的に世界的
にヤマハマシンが総合的な優勢
を誇っていた。
ヤマハが4ストレーサーの世界に
本格参入したのは1985年から。
1985年。
それはレース界ではいろんな
変化が始まった年でもあった。
一番大きいのはヤマハが4スト
レーシングマシンを手掛け始め
た事だろう。
そして、テック21によるパステ
ルトーンのカラーリングがレー
スの世界に登場した事だ。
他にもいろいろあった。
二輪の固定観念の打破が開始さ
れたのが1985年だった。
固定指定ゼッケンはバリー・
シーン以外では見なかったが、
広報広告戦略としてテック21
ヤマハチームは「21」を取得
した。
ルールや規則があるのにどうい
ったロビー活動や裏交渉をした
のかは分らぬが、商品名と同じ
番号を取得する事にヤマハと
資生堂は成功した。
その番号指定も当時はWGPでの
「7」以外は無かったので、と
ても驚いた。
その後の個人指定ナンバー特例
の魁となったのもヤマハTECH21
の1985年チームからだった。