渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ヤマハ パッソル(1977)

2024年04月23日 | open



高校の時、桜台の第一マシン
プールまで通う足として「今
度ヤマハから新しく出た
乗り
物」との事でパッソルを所属
していたレーシング
チームが
私に貸し出してくれ
た。無償
貸与。

ヤマハが10数年ぶりに国内で
復活させた初のスクーターだ。
ラッタッタと呼ばれたロード
パルで1976年に50
原付ブーム
を開拓したのはホ
ンダだったが、
ホンダはまだ
ステップタイプの
原付しか誕生
させていなかった。
人気が上がりつつあった1970
年代後半の原付界
にヤマハは完
全に女性層をター
ゲットにした
ステップスルーの原付を投入し
てきた。つまりスクーターの
復活がここから開始された。

これにより、ホンダヤマハのHY
戦争が始まる。シェアの奪い合
いの合戦はその後の1980年代に
激烈になり、スポーツバイクの

世界にまで戦線を広げた。

私が乗っていた水色のパッソル
は1977年~1978年に乗って
たが、乗り出す
と笑いがこみ
上げるほどに面
白かった。
なんだこれ?だったのだ。
足を揃えて乗れるし、足もと
に箱も置いて走れるし、何よ
りも低パワーながら実にキビ
キビとしていた。2ストのヤマ
ハの瞬発力は楽しかった。
ただ、パッソル1型は女性は
乗れなかったのではなかろう
かと感じる。
なぜならば、足を閉じて乗る
と、シートの前部が強力な電
動マッサージ器のような強烈
な振動を続けたからだ。
実はCM出演していた八千草薫
さんも実走行場面ではやや股
を開いて乗っている。
ああでないと女性は直撃連続
振動で乗れないと思う(笑

八千草薫さんはこの79年CMの
時48才。1977年CMでは46才だ。
ヤマハ発動機 パッソル (1979)


という事で、原付バイクは面白

い。
今ではミニバイクと呼ばれている
が、日本に大スクーターブーム
を作ったヤマハの造語「ソフト
バイク」という単語は残念なが
ら普及しなかった。製品自体は
爆発的大ヒットだったのだが。
ホンダはヤマハに先を越された
ので、1980年に初めてステップ
スルーのモデル「タクト」を
史上に投入した。
ここからはもうヤマハvsホンダ
はガチでの合戦状態。
ヤマハはレーサーTZ250のノウ
ハウを援用した超絶スポーツ
バイクのRZ250を登場させて中
型バイクで大きくホンダに差を
つけた。
ホンダも黙ってはおらず、1982
年にVT250Fを投入した。
だが、RZには人気でも走行性能
でもホンダは勝てなかった。
ホンダがヤマハを撃墜するのは
1988年のNSRの2型登場まで
時を待たねばならなかった。
2ストのヤマハを2ストで撃破し
た時、ホンダ社内の開発陣営の
中に歓声が巻き起こったとホン
ダ関係者が後年書き物に記して
いる。
だが、ヤマハとホンダの大戦争
があったからこそ、日本の二輪
は開発が進み、世界トップに君
臨し続けられたという歴史的な
背景があるのは事実だ。
工業力は競争原理によって進化
する。競争無き予定調和のナァ
ナァ路線だと進化は停滞あるい
は停止する。
今の日本企業はそれに近い。

コンプラ同盟を固める事しか
できない。
それが「新時代」というならば、
そこに未来は無い。
外部刺激を遮断する事により爆
発的進化は望めず、
内向閉塞的
な自己
満足製品しか作れなくな
るからだ。

カワサキがここ10数年でグンと
伸びたのは、予定調和など無視
して突出した独自モデルを作っ
たからだろう。
そして、それはユーザーに受け
容れられた。
結果、売れる。
カワサキ一人勝ちの状態が10
年程続いたのはそれが理由だ。
そして、読み取れる。
カワサキの社内には確実に策士
たる「仕掛人」がいる事を。

 

 

 


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