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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

セッティング試走

2025年02月14日 | open



バラして、セッティングを
変えてから試走。

まぁまぁかな。
もっと低速からドカン!と

欲しいが、結局それを実現
するにはさらにビッグボア
に変更しないとならない。
クランクももう45,000km
使っ
ているので、腰下一式
をまんま
低走行物に換えた
ほうがい
いだろう。
ビッグボアに換装する時に
は腰下もすべて見直しをす
る予定。
最終的にはイエローナンバー

上限ぎりぎりのエンジンを
搭載したいと思っているが、
それはまだ先の事だ。
段階を追って排気量は
上げ
て行く。一気にではなく階
段のように。
人に譲渡してからバラバラ
で8ヵ月放置→廃棄処分寸
前の状態から引き取り、私
が自ら手直しして完全復活
は達した。
今はチューンナップの領域
段階。いろいろなセッティ
ングを試している。
電気系、電子系は根本的に
見直してハイグレード状態
にしてある。
次は10ポートボアのシリン
ダに換装して試す。

カルガモさんがいた。


波にチャプチャプ浮かんでる。





大昔の海際の堂

2025年02月14日 | open



市中原付散歩をしていて見
つけ
た歴史的な場所。
現在の広島県三原市街地の
西端、頼兼(よりかね)とい
う地名の地区だ。
ここには「近江堂」という
堂が建っている。
このあたりは海と小島が浮
かぶ浅瀬のデルタ地帯で、
船での渡渉エリアだった。
現在の三原市街地はほぼ全
域が明治以前は海だった。
そうした地形と変遷は岡山
県の児島地区に似ている。


行ったことがない場所

2025年02月14日 | open



広島県三原市内。
道を適当に走っていたら
道が途切れていて「この
先行止まり」の看板あり。
道のエンドは採石場だっ
た。
1970年代仮面ライダーの
撮影に使われそうな場所。



鳥海山

2025年02月14日 | open



1980年代、東京から青森
までの日帰り出張の時、空
から見た鳥海山がかなり綺
麗だった。
上空から見る山もまた趣深
い。






 


2025年02月14日 | open



橋が好きだが、特に変わった
ところでは、今は絶滅の危機
に瀕している歩道橋が好きだ。
歩道橋から見る街の風景が。

よく人と待ち合わせる時、歩
道橋の上で待ち合わせた。
上で待っていると、階段から
段々と待ち人の姿が見えて来
る。それが良かった。
映画やドラマのシーンでも、
都心部の歩道橋は多くの場面
でロケ地にもなっている。


都内北区王子の駅前は50年
程前から殆ど変わっていな
い。
東京都内23区で、駅前の姿
が変わっていないというの
は案外珍しい。
右に見える森は、江戸幕府

八代将軍吉宗が日本で初め
て江戸
市民に花見で開放し
た飛鳥
山だ。日本初の公園?





 
 


この橋は実際に存在する

2025年02月14日 | open

信じられないかもしれないが、
この橋は実際に存在する


世界の奇橋。
なかなか見応えがある。

 


富士ラビットスクーター

2025年02月14日 | open



この富士産業(現スバル)が1968
年まで発売した大人気スクーター
は、サスペンションに「空気ば
ね」を使っている。つまりエア
サス。
空気圧入式なので、結構空気漏
れしたようだ。

一時期、消防庁に積極的に導入
された救急車にベンツのエアサ
ス仕様があった。
一度乗った事があるが、非常に
滑らかな緩衝性で、まるで空の
上を飛んでいるようだった。
否、飛行機のほうが微振動を
感じさせるような、そんな乗り
心地。
ただ、クイックリーでアグレッ
シブな走りはできないだろうと
感じさせた。

この富士ラビットは、ヤマハが

開発普及させた分離給油方式で
はないので、2ストオイルをガ
ソリンに混合させた燃料を使っ
ていた。
今でもガソリンスタンドで頼む
と何対何でと指定して混合ガス
を作ってくれる。
船舶用の2ストエンジンなどは
混合ガソリンを使うので、提供
サービスは今も存在する。
ラビットの場合は25:1指定と
かなり濃い目。
2ストレーサーの場合、オイル
とセッティングにもよるが、
60:1~80:1あたりまで薄い
混合ガソリンを使う。
ポリタンに適正配合して2スト
オイルとレーシングガソリン
を入れて、シャカシャカとタ
ンクを振って混合させていた。
1976年時点で、富士スピード
ウェイのレーシングガソリン
は150円/ℓだった。
一般公道レギュラーガソリン
が115円程度の頃。

岡山県笠岡市のモトカフェの
「Z-YARD」のマスターの愛車
の中にこの富士ラビットスク
ーターがある。
乗り出す時には、毎回混合ガ
ソリンを作って給油している(笑
そうした手間も楽しみの一つ
のようだ。


1946年から1968年まで製造。
富士重工は中島飛行機が社名
変更した会社だ。
中島時代には一式戦闘機「隼」、
二式戦闘機「鍾馗」、四式戦
闘機「疾風」(こいつは強い)等
を製造していた。大型爆撃機
の「富嶽」も。
富士重工の現在の社名はスバル。


完全フルレストアされて、
いつでも走れる状態にある。
実際にヤードのマスターは
これを足としている。


状態は最高の状態。








ガソリンタンク部。


マスター曰く、このノブの
デザインは富士山だろうと
のこと。


オリジナルキー。


かなり綺麗な状態で動態保存
している。実用に供している
から「動態保存」ではないか。





 


空冷スクーターの冷却

2025年02月14日 | open



この画像は始動テストの時の
ものなので、エンジン右側の
アウタカバ
ーを外している。
だが、このまま走行はできな
い。
なぜならば、空冷スクーター
の場合、奥まった位置にある
エンジンにクランク軸の回転
に合わせてファンにより強制
送風する事によって冷却する
からだ。
そのためには、ケースカバー
の中で冷却空気を回り込ませ
てエンジンのシリンダとシリ
ンダヘ
ッドに風をあてる。
ケース内部を循環した風は掃
気ポート付近から外部に自然
に外気との負圧差によって吸
い出されるように排出
される。
なので、フィンの周囲に風が
壁に当たって巡りまわるアウ
タケー
スが無いとエンジンに
風が適切に当
たらない。

こうした空冷スクーターの扇
風機のようなファンはエンジ
ンの左右に着いている。
右側はエンジン強制冷却の送
風の為
のファン。
左側はVベルトを冷却させる
ための送風フィンだ。


特に右側の空冷用のファンは
エンジンの圧縮比を上げたり、
ボアアップしたりして熱量が
上がったならば、送風力が高
いパーツに交換する必要も出
てくる

だが、送風力が高いという事
は回転に対する抵抗が増える
という事でもあり、クランク
軸の高速度回
転の抑えになっ
てしまう。

そのあたりは、社外パーツの
ファン構造や重量によって差
が出て
来る。
やたらと風量アップの
みに主
軸を置くと、今度はエ
ンジン
の高回転域の抵抗にな
ってし
まうという物理現象が
発生す
る。

もう一つ重要な事は、冷却部
絶妙に空力設計してある二
メーカーのケース内部で、
適正
流速と気流循環の流れを
促進する
か阻害するかの要因
にプラグ
キャップの形状があ
る。

ノーマルのプラグキャップが
笠状になっているのは、エン
ジンのアウタケース内部の空
気の流れをスムーズにすると
いう効果を得るためだ。
よくあるストレート笠無しタ
イプのレーシングキャップ等
をスクーターに装着してしま
うと、そのケース内部の空気
の流れの効果を阻害する現象
も発生する。プラグ周辺に穴
が空いてしまって漏れが生じ
気流が乱れ
るからだ。
結果として、風がよく当たら
ずにエンジンの左側のみ
が冷
却不足を起こすという現
象が
発生する。これは熱に対する
冷却システムに不具合を生じ
させたりする。
プラグキャップは空冷スクー
ターの場合は、ノーマルタイ
プの笠付きでヘッドを覆う物
のほうが二輪メーカーの初期
設計を崩さないので、選択肢
としては好ましいだろう。


 



バカたちの饗宴

2025年02月14日 | open

思想性なきバカゆえにバカな
りの有様でまたバカがネット
で騒いでる(笑
一事が万事低級すぎて笑える。
てか、季節の変わり目には毎
度騒ぎ出す。
オツムの病だろう。
特に人の食べ物と着ている物
に喰いつき、誹謗中傷を執拗
にネットで繰り返す。
よほど飢えているのだろう。
狂犬みたいだ。
まあ、人間の心などは持って
はいない。
カス以下の存在。人の世の中
には不要。
ダニは総殲滅がふさわしい。

 
 



 

 


新景色

2025年02月14日 | open
 


広島県三原市で、今まで
行った事がない場所に
ってみた。
初めて見る景色。
遠くにしまなみ海道の因
島(いんのしま)大橋が見
える。
 
三原市は狭いコンパクト
な街だが、まだ訪れてい
ない場所がかなりある。
ここは、三原市街地の西
端にあたり、室町時代以
前には往還道としてあ
た場所の山すそだ。
だ戦国末期に三原城
ができる前に
は、今の
三原市街地は海
だった為、
尾道方面から
西に行くに
は、現三原市
中之町から
広島大附属の
裏の桜山(山
名氏の山城)の
北側を通り
小浦(現西宮)
まで出た。
さらに八坂神社の下を抜
けて船津地蔵に出て、そ
こから対岸の現頼兼(より
かね)の近江堂まで船で渡
った。
頼兼からは大串の谷に入り、
現沼田町に入った。
戦国末期に三原城築城以前
は現在の三原市街地は海で
あったので、現在の市街
部分を行くには船に乗っ
て小
島や岬の山すそまで達
する
必要があった。
毛利一門小早川氏の城があ
った高山城、新高山城まで
尾道方面から到達するには、
内陸部の山中にある古代山
陽道もしくは海沿いを岬の
山すそを縫いながら進む往
還道を行くしかなかった。
まさに陸の孤島が現在の広
島県三原市だった。
 
三原の陸路交通の利便性が
やや開かれたのは昭和戦
の1950年代であり、
昭和
30年代にようやく国
道が開
通した。
三原には小さな城下町
ったとはいえ、極めて
閉鎖的な土地柄として
存在している。何かに
つけ、21世紀の現代でも
明性に乏しい。
それは、旧古の地形からく
る人々の点在さと、その閉
ざされた地形を利用した中
世戦国武将たちの軍事的
意図を持たせた集落や町
りの影響の残滓である事
ろう。
中世軍事統治が人心に及ぼ
したものが如何に強大で骨
の髄まで浸透したものだっ
たかが如実に分かる。
 
また、中世から近代江戸期
における城外農村エリアの
統治の徹底は、幕藩体制が
消滅して百数十年経とうと
も、封建時代の被支配者と
しての精神性が根強く残る
事もあからさまに見て取れ
る。
21世紀にあっても、密告と
吊し上げ。それが今でも地
場の人間は大好きで横行
ている。現代的な人権
意識
は極めて乏しく、町ぢ
ゅう
のそこかしこに人権啓
発の
大きな看板が建ってい
るが、
住民たちは今でも差
別や集
団排斥行為が大好き
だ。

これらは開かれた地形と開
明的な近代思想の不在がも
たらしたものであり、それ
を過去の時代の統治者たち
が人為的に人民操作をして
来た治世の結果といえる。
有体に言えば、現代でも前
時代的な監視と密告、排除
(村八分的な)事が横行して
いる土地だ。
これは農村部だけでなく、
市街地においても蔓延して
いる。
差別も排除排斥も無くなら
ない土地。無くならないど
ころか、それらを人間たち
が積極的に温存助長再生産
している土地。
東京都心部や都会近郊の郊
外の新
興住宅街のような開
明性は
無い。
それを社会的にには「古き
良き時代」とはいえない。
地方の入り組んだ奥まった
土地では、全国的にそうし
た旧態然とした因習や発想
が現代でも根強く残ってい
る。
そのような悪しき流れを指
摘すると「地元ディスり」
とか「地元レイシスト」と
か本気で言う感覚の人間だ
らけなのだから、この先も
明るい未来は無いだろう。
悪しきを自ら断ち、開かれ
た未来を自分らで作ろうと
する心根が皆無なのだから。
 
そら、県外への転住者増加
に歯止めも利かない筈だ。
ちょっとした地方的社会問
題となっているが。
住みにくい、こんなとこに
は住みたくない、という人
たちや、よその素晴らしさ
を知った人たちは、それは
どんどんと地場から出て行
くのはごく自然の流れだろ
う。
客観的正否を自覚しない手
前味噌のみの歪んだ郷
では自主的な浄化は望
い。
これは全国的にどこであっ
てもそうだろう。