実は別解があった!?
入社試験の数学・論理クイズに挑戦!
おやどりさん、最高(笑)。
毎年年末には必ず寄っていたこの
撞球場は戦後間もなくから開業
した古い店だ。
私が行き始めた全盛期末の頃は
現オーナーの御父上が経営して
いた。感じの良い老紳士だった。
2台店だったが、その後、私の
10才年上の息子さんが経営を引
き継いで、ポケット5台店に改装
した。
自己所有のビルの最上階にこの
店はある。
戦後はずっと四つ玉メインの店だ
ったらしい。
昔はカウントさんの女性もいた
という老舗。
県庁所在地の都市の繁華街にある。
大昔の名残の箱台。
この店の箱台は手入れもよく、
私は一番好きなテーブルだった。
この個体の箱台は穴の奥が深く、
しっかり狙わないとポケット
インしない。
暫く訪れなかったら、営業してい
ない情報がネットにあったので
心配していた。
そうしたら、どうやらマスターは
体壊して3年程店をやっていなかっ
たようだ。
よく朝まで一緒に撞いて、朝飯は
近所のうどん屋に一緒に行ったり
した。
マスターが朝飯にお好み焼きを
買ってきてくれたりもしたりした。
朝からやってるお好み焼き屋とい
うのもなんだかすごいが。
駅前、繁華街のど真ん中にあるの
で、年末の仕事納めの後にはこの
街に宿を取り、必ず顔出しした。
また、この地方に行くたびに宿泊
出張では仕事後に顔出しした。
それでも遠いので、年に10回は
行っていない。
もし、この店が私の居住地のそば
ならば毎日通うだろう店だ。
最初域始めの頃は1時間430円だっ
た。
店は通常営業が深夜1時までだが、
私一人になってもマスターは「朝
までだろうが昼までだろうが、
好きなだけ撞いて」と言って店を
開けてくれていた。
結果、マスターと一緒に朝まで
撞いて朝飯となる事が毎度のよう
だった。
年末12月31日に寄った時は、正月
をこの店で迎えるのも定番だった。
ビルの下のテナントが営業時間中
ならば、その店で食事したり、別
なテナントで玉仲間とちょい飲み
に退出したりもしたりした。
玉仲間がバーを経営していたりも
した。この土地の人たちは陽気で
明るく、どの人もとてもいい感じ。
これは取引先の仕事の顧客や業界
の地場支点の人たち、関係業者の
人たちも全員そうで、明らかに
そうした人柄は土地柄なのだろう
と思う。
みんなとってもいい感じ。
私は今でも大好きな町だ。
今、お兄ちゃんマスターが体調が
芳しくないようで、現在の運営は
というと・・・何とこの人がやっ
ているとの事だった。
私に90年代にTADを譲ってくれた
人。通称タマちゃん。
TADの前のオーナー。ハタチで既
にマスワリ小僧だった。ブレイク
で割れたら全部マスワリ。マス
ワリしか出さない(笑)。
フランスに留学してパン職人と
して帰国後に店をオープンした。
なんでも今も結構流行っている
らしい。何度か食べたが、とても
美味しいパンを作る。
出会った頃は俺ハタチだったと、
きょう電話で言っていた。
1997年の事。会ってすぐに意気
投合して、何度目かに相撞きし
ている時に私にTADを譲ってくれ
た。
まだこの玉屋の店は現オーナーの
父上がやっていた頃だ。先代オー
ナーも自分の孫のように可愛がっ
ていた。多分、ティーンの頃から
通っていたのだろう。
今はタマちゃんが中心になって、
古い常連さんたちが集まって会
員制クラブとしてこの玉屋を運営
しているようだ。
TADは彼の前の所有者は玉屋の
マスターお兄ちゃんの物だった。
私たちはその先代父上の子息の
マスターのオーナーの事を「お
兄ちゃん」と呼んで親しんでいた。
ごく親しい常連さんはみんなが
「お兄ちゃん」と呼んでいた。
人柄温厚で最高の人。ホセ・
パリカに感じが似てる雰囲気。
大学は入学したら全共闘のバリ
スト封鎖だったので、ほとんど
大学には行かなかったと言って
いた(笑)。
この店のマスターは、実家稼業
の玉屋の育ちという点や、人の
雰囲気、育った住環境は、私が
かつてよく行った東京中野商店
街のど中の玉屋のマスターに似て
いる。人柄温厚で朗らかな感じも。
商店街の中の街育ち、という感じ。
「お兄ちゃん」のキュー。
今は今の運営形態になってから、
タマちゃんによると台は3台に減
らしたとの事。
「え~?残りのスペースはどう
してるの?」と訊いたら、メン
バーの寛ぎ自由空間にしている
との事だ。
そして月額費用は1万円で撞き放題
形式らしい。
新規会員募集はせずに、古くから
の常連さんたちのみのメンバー制
にしたようだ。
私は特別に来る前に連絡くれたら
店開けていつでも撞かせてくれる、
と言っていた(笑)。
月額定額会費で撞き放題というの
は、私が球友と広島県の地元で運営
していた倶楽部撞球会の撞球室の
形式と同じだ。
撞球会クラブハウス。(2005-2010)
撞球会撞球室はブラスリーと
ガリオン台を入れていた。
調度品等はメンバー各人の持ち
寄りでまかなった。
地元に撞球場がなければ、有志
で力を合わせればこういう事も
できる、とビリヤード専門誌で
もカラーページで紹介掲載された。
ほんとの事言うと、私個人は箱台
を撞球室に置きたかった(笑)。



















河川での水難事故にはくれぐれも
た。
トにパンパンに入れていたフ
ライケースが浮き輪の役目を
果たして、水中でもんどりうち
ながらも運良くたまたま浮上。
も何とか方位を身体使って操作
して岩のある岸に。背面浮かび
の対処法は知っていたから何とか
なった。
かった。

渓流でのフライフィッシングは、
確実に深く沈むから。

釣りもレジャーも、川遊びは非常
注意してください。
です。



「ズンドコベロンチョ」 草刈正雄
1991/4/18
「アーバンライフにおけるコン
テンポラリーのニーズに応える
為に、今のインテリジェント
ビルにはアメニティ空間として
のアトリムは欠かせないわけで
す」(三上課長)
(笑)。
ビリヤードのある宿に泊まって観光する旅
~ビリ宿~ 河口湖温泉 河口湖ホテル編【VLOG】
河口湖北原ミュージアム。
トライアンフタイガー。
1938年、世界で初めて女性が二輪
レースに参加したモデル。
1988年、世界で初めて世界グラン
プリでポイントを取った女性レー
シングライダーは、F1界と二輪界を
完全支配する英国の賄賂王のよう
な独裁者(ヒトラーを肯定してい
た人物)により1990年にレースへ
の出場資格を一方的にはく奪され
た。これは歴史的にひどすぎる話。
女性初の二輪レース世界チャンピ
オンは、カワサキのニンジャ400改
を駆り、2018年に歴史的に誕生した。
世界初の女性ライダーのレース参加
は1938年の英国トライアンフによる
ものだった。
ビリ宿とは関係ないネタですが。
今回のビリ宿の撞球室はかなり
立派な部屋です。
ボルルムとは舞踏場、ダンス場、
宴会場という意味の単語。
完璧なるアメニティー空間。
広く開放感がある。
テーブルは名器ブランズウィック
ゴールドクラウンⅢ。
通称ブラスリー。
とても作りがしっかりした歴史的
な名品です。
米国ブランズウィック社が台湾で
OEM製造した製品で、厳しい品質
基準のため、かなり作りはピシッ
としている台です。
ブランズウィック台はこれまでの
長い歴史の中でいくつか特筆的な
名品を作りましたが、この1986
ブラ3モデルは、一番の歴史的名品
とも呼ばれています。

極めて良質な材を使用している
この画像のブレイクシャフトの

6本のうちこの個体だけバーズ

とにかく木肌が素晴らしい。

このあたりなどは本当に日本刀

先端付近の木目も素晴らしい。

画像でお分かりになるだろうか。

これ、日本刀です。まるで(笑

松の森林を伐採しまくり、山が
丸裸になったら別の山に移動する

