2016年7月26日、45人が殺傷され、うち19人の方が亡くなられた『津久井やまゆり園事件』を題材にした映画『月』が公開中、『月』の雑感を書き記しておきます。
その前に、事件と私の関係(というほどのものではないですが)です。
各障害者サッカーの映画制作を通じて、知的障害、聴覚障害、肢体不自由の人たちとつながり、描いてきた私としてはとてもショッキングな事件だった。当初は忙しさにかまけ何もすることができなかったが、2020年初頭の公判あたりからは事件の全容を理解しようと関連書籍を読み漁り、神奈川新聞、東京新聞の関連記事も事件当日まで遡ってすべて目を通した。映画の原作となった「月」も当然読んだ。
公判にも通い一度だけ抽選に当たり傍聴することもできた。その後も関連シンポジウムに顔を出したり、やまゆり園や自宅付近も何度か歩いてみたりして、何とか映画(フィクション)にならないものかと、植松が生まれてから犯行にいたるまでを書き起こして、プロットなども何度か書いてみたがきちんとした形にはならなかった。
また電動車椅子サッカードキュメンタリー映画『蹴る』の制作の流れで介護福祉士の資格を取り、また強度行動障害の状態にある入所者がいる施設に通ったり、強度行動障害支援者養成研修を受講したりと、いわゆる福祉側からの視点としての興味も持ち続けた。
そんななか、昨年の夏ごろに映画が作られると知り、完成したら是非観たいと思っていたところ、試写会で観ることができた(公開後にも再見した)。ということで感想を書いていきたい。
まず大前提として、難しい題材を映画化したスタッフ、キャスト、関係者の方々には敬意を表しますし、何よりも映画が作られ多くの人に目に触れ、風化しつつある事件を改めて考え直すきっかけになったことは素晴らしいことだと思っています。
では項目別に感想を書いていきます。
『きーちゃん』の描き方
きーちゃんは原作である小説『月』の登場者。目も見えず、発語も他者との意思疎通もできず、上肢下肢も顔面も動かせず、ベッド上に“かたまり”として存在し続ける。原作はほぼ、そのきーちゃんの想念で埋め尽くされている。
事件に則して言えば、被害者側、殺された側の人物である。
その想念をなんらかの形で直接映像化するのか、あるいは別のやり方をするのかがまず最初の興味だった。
映画では、書けなくなった小説家である洋子(宮沢りえ)が、きーちゃんの心を書き、彼女自身の再生のドラマとしても描かれる、という間接的な表現となっていた。
想念を直接映像化すればおそらく観客層を狭めることになるだろうし、元々、故河村光庸プロデューサーの「なるべく多くの人に観てもらえるような構えの大きい映画にしたい」という意図があったようで、だとすると、おのずと選択肢は限られてきたようだ。
それならそれで良いと思うが、洋子が書き上げた小説を、なんらかの映像表現で、きーちゃんの言葉としてさとくんに対峙すべきなのではないかと思った。(さとくんとは、植松聖死刑囚をモデルとした小説内の登場者)
小説は、事件後、事件に対峙するものとして存在し続けるということはわかるのだが、映画内で描くべきことだったのではないか。
原作では、きーちゃんを殺しにきたさとくんに「(略)〈ひとでないひと〉というのは、きみのかってなきめつけだ」「あ、あ、在るものを、むりになくすことはない……。あ、在ることに、い、い、意味なんかいらない」と訴えかける。その場面に代わりうるようなシーンとして。
『さとくん』の描かれ方~職員の描かれ方 その他
原作に出てくる『さとくん』は植松聖死刑囚をモデルにした登場者であり、事件をどう描くかということとストレートにつながってくる。植松には多くの方々が接見したが言いたいことだけを言い放ったという印象はぬぐえず、また責任能力の有無に終始した一審でも十分な解明にはいたらず、犯行にいたるまでの過程の足りない部分をフィクションの想像力でどう補うのか、そしてそもそもどう描くのかと思い注視した。
映画パンフレットで石井裕也監督が「植松自身の人間像を掘り下げるだけではあまり意味がない」「限りなく『ごく普通の人間に置き換えていく作業』」と言うように、「事実に寄せ過ぎないように」人物造詣がなされ、例えば普通だけど紙芝居の内容がちょっと変という味付けはされているものの、実際の事件に比して犯行に至る心理過程は圧倒的に足りなかった。
映画「ジョーカー」のように観客がさとくんへ感情的に後追いするような現象は回避しなくてはならないだろうし、確かに致し方ない面もあるだろう。
また「彼が持つ思想や考えはいまのこの社会の産物であって、ごく普通の誰の心の中にも潜んでいるんじゃないか」と石井監督がいうように、英雄視は論外としても、特別なことではなく社会の問題として描きたいこと自体は理解できる。
しかし、さとくんをできるだけ普通に描く一方、監督が取材した障害者施設での虐待の現状をリアルに描いている部分があり、結果として施設内のいびつな虐待や糞尿まみれの入所者そのものが、さとくんを犯行に向かわせたという印象が強まっている。
もちろん一つの要因にはなりえるが、あきらかに映画全体のバランスが崩れているようにも感じた。
実際には植松は、介助経験から感じたこと、日本の財政危機やトランプ大統領の台頭、犯行を犯せば総理大臣に褒められると(植松が勝手に)思った政治状況、ネット空間の影響、イルミナティカードの勝手な解釈、薬物の影響、個人のパーソナリティ等々、複合的な要素がからまって犯行にいたったものだと思われる。
また施設を舞台とするならば、虐待とはほど遠い、小説家志望でもない、いわば普通の職員たちと重度障害者の密な関係をベースとして描く必要があったのではないか。もちろん撮影することは容易ではないが。
一度公判を傍聴できたと前述したが、その日は、やまゆり園職員の方の意見陳述があった。犯行当日、入所者がしゃべれるのかしゃべれないのか植松から確認された職員の方だった。映画では陽子(二階堂ふみ)の存在にあたる。
PTSDに苦しみ、植松に対しては「命が終わる最後まで、命の尊さと向き合ってほしい」と述べられた。その残酷な場面との対比の意味でも、日常の様子はあったほうが良かった。自分であれば最もこだわる場面でもある。
石井監督は、実際の障害者の方々が出演することにはこだわり、撮影した施設側の協力もあって出演されたそうだ。そして撮影そのものが出演された障害者の方々にその後好影響を与えたようだが、原一男さんも指摘されているように彼ら彼女らが『小道具』の域をでていないようにも感じた。
(渋谷ユーロスペースの壁面に原一男さんの批評が張ってあった。最後、持ち上げるのかと思いきや最後まで辛辣な批評だった)
さとくんに話を戻すと、恋人=祥子(長井恵理)がろう者の設定になっていた。この設定にはとても大きな違和感を感じた。
植松は「意思疎通のとれない人間」は生きていてもしかたがないとい主張していたが、話すことができなくとも手話で語る聴覚障害者は植松の対象外だという。石井監督はそれを受け「彼の不寛容さを描くにあたって、どこに寛容さを示すのか明確にしておきたかった」ことから、ろう者が恋人である設定にしたというが、明確にするのは良いと思うが、恋人の設定にするのはあまりにも飛躍し過ぎだと感じた。
またろう者である祥子は「我々が使うだらしなく使う言葉の空虚さから逃れている存在」というが、聞こえないから音声言語の空虚からは逃れているかもしれないが、手話も言語だからこそだらしなく使う言葉の空虚さをもつわけで、手話に対する何か幻想じみたことを感じていたのだろうか。
撮影としては、実際のろう者である長井恵理さんがキャスティングされ、手話指導もろう者監督の今井ミカさんが入り、しっかりと進められたようだが、そのことと、ろう者の恋人を設定することは全く異なる話だ。
長井さん(祥子役)と磯村さん(さとくん役)は、2人が付き合って何年目であるとかいろいろ話したらしいが、自分の頭のなかでは2人の過去を考えれば考えるほど、犯行へといたる、さとくん像が見えなくなった。
また犯行に及ぶ日の朝、さとくんは彼女に聞こえないように犯行をほのめかすことをしゃべるが、そのことがプラスに働いているとは思えなかった。
この恋人設定は「『ごく普通の人間』に置き換えていく作業」のなかで、行き過ぎた改変だったのではなかろうか。
陽子(二階堂ふみ)も昌平(オダギリジョー)も石井監督の観念の産物というイメージが大き過ぎるように感じた。現実に起こった事件を元に描くにあたっては、石井監督以外の脚本家も加わり、もっと客観視できる制作体制にすべきだったのではないかとも感じた。
ただ前述したように、映画が作られ多くの人に目に触れ、風化しつつある事件について議論するきっかけになっていることはとても評価しています。
言うは易し、作るのは大変です。
(参考資料)
映画「月」パンフレット
月刊「創」11月号(創出版)
「月」辺見庸(角川書店)
映画『月』は試写会と公開後の2度観たが、試写会では、元津久井やまゆり園の職員の方や、やまゆり園事件に詳しい方々と観て、その後感想を語り合った。
その元津久井やまゆり園の職員の方が映画.comに感想を書かれている。