サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

オリンピック・パラリンピック

2021年07月04日 | 日記

 オリンピック開幕まで3週間、昨年の時点で2年延期を決めていればとつくづく思う。
 当時も「1年ではワクチンも間に合わないのではないか」と多くの識者も語っていた。安倍前首相の任期中に開催したかったのか、選挙に有利になるように考えたのか、中国よりも先に開催したかったのか、いずれにせよ、その決断が結果として様々な面でマイナスに作用していることは間違いないだろう。 

 今となっては無観客開催がもっとも現実的な選択肢だと思うが、関東圏以外の地域は実情に合わせて観客を入れる形もありなのではないかと思っている。パラリンピックに関してはもう少し様子見だろうか。

 オリンピック開催賛成か?反対か? 様々な立場もあり、実名では意見を言いにくかった人たちも少なくないと思う。私自身は、公的には、開催反対とはなかなか言いにくかった。オリパラといっしょくたに語られる状況では、パラリンピックは延期し開催してほしいと思う立場からはそうであった。また自分自身は過去、サッカー五輪予選のDVD制作に関わり利益(わずかですが)も得たりしている。
 だが以前から実は、そもそもオリンピックは無くなったほうがよいのではないかとずっと思ってきた。

 個人的なオリンピックの印象を書き記すと、最初の強烈な記憶は1972年ミュンヘン五輪男子バレーの準決勝日本対ブルガリア戦だ。当時は小学生だったが、食い入るように深夜のTVにかじりついた。2セット連取されてからの逆転劇。スポーツを観ていて、あれほどまでに熱くなったのは生まれて初めての経験だった。テレビの前で、一人、興奮した。激戦の2~3日前にはイスラエル選手ら11名が殺害される事件が起きていたが、その頃の自分にとっては男子バレーの逆転劇のほうが大きな事件だった。

 次回のモントリオール五輪は全く記憶がない。交通事故で瀕死の重傷を負い、オリンピックどころではなかったからだ。モスクワ五輪も西側諸国のボイコットで全く観ることもなく、ロス五輪は東側がボイコットし大会そのものにあまり興味を持てなかった。

 続くソウル五輪は、韓国自体への興味も相まって、開会式から閉会式までずっとTVの前に張り付いた。助監督の仕事の切れ間で暇な時だった。印象に残ったのは、何といっても男子100m。ベン・ジョンソンが驚異的な世界記録でカール・ルイスに走り勝った場面だ。その後、ドーピングの陽性反応が出て金メダルが剥奪され、さらに驚かされた。

 西側諸国、東側諸国のボイコット、ドーピング違反が続き、オリンピックへの疑問がわいて歴史を調べてみたりした。黎明期は肉体労働者をプロとみなし排除、つまり貧乏人に参加資格はなく、女子選手も除外、いわばヨーロッパ貴族のアマチュアリズム。その後、ベルリン五輪ではナチスに思いっきり政治利用され、聖火リレーで得た情報は、その後の侵攻の際にも活用されたという。IOC会長だったブランデージが後年になってもベルリン五輪を評価していることにも驚いた。もちろん負の歴史ばかりではないのだが、オリンピック礼賛だらけの情報にしか接してこなかった身からすると、驚きの歴史でもあった。
 とはいえ元々スポーツ好きスポーツ観戦好きでもあり、アトランタ五輪での男子サッカー28年ぶりの出場等もあり、それなりに五輪を楽しんでいた。陸上競技、ことに短距離種目は大好きだったし。だが陸上競技は五輪よりも世界陸上のほうが楽しめたりもする。じっくり観れるし、五輪ほど日本人中心ではないということもある。例えば女子400mHのサリー・ガネルの世界記録の走りなどは今でも印象に残っている。

  2004年のアテネ五輪の期間中、イタリアに行く仕事があった。当時レッジーナ所属の中村俊輔選手のインタビューを一人で撮ってくるというものだったが、ホテルにいる時はずっとテレビをつけていた。流れてくるのは、金銀を取ったイタリアのフェンシング女子選手の話題だらけ。だからアテネ五輪といえば、そのことばかりを思い出す。
 その時に思ったのは、“平和の祭典”といっても「世界はバラバラのものを見ている」「同じものを見ていない」というもの。自国にとって“気持ちのいい”情報ばかり。もちろん開会式や一部注目競技はそうではないだろうが。例えばサッカーやラグビーのW杯であれば、観る試合の取捨選択はあるものの、同じプレー、試合を見ているが、オリンピックはそうではない。
  異なる競技の選手が一堂に会することに意義があるという理屈もわからないではないが、一都市で開催される前提のわりに巨大化した五輪はいくら何でも無理があり過ぎるのではないか、各々の競技の世界選手権がきちんと注目される形で開催されたほうが、スポーツという観点からはより良いのではないか。メダル、メダルと大騒ぎし、スポーツそのものを見ていないのではないか。
 オリンピックは単なるスポーツ大会ではないと言う人もいる。だが何故、単なるスポーツ大会ではいけないのだろう。余計なものをそぎ取った単なるスポーツ大会だからこその良さがあるのではないか。
 もちろんこれまでの五輪の功績は大きいとは思うが、お金の面でも必ず「小さく見積もり、大きく支出」ということを繰り返してきている。

 そんなこともあり「オリンピックは無くなってしまったほうが良いのではないか」と思うようになっていた。

 だがそんな話をすると顰蹙を買うことが多く、あまり口にする機会もなくなっていた。
「マイナー競技はどうするのか」ともよく反論された。理想は、マイナー競技でも単独の世界選手権で成立していくことかと思う。そうもいかないとすれば、思いっきりスリム化して、もっとシンプルなものにしていったほうが良いのではないか。

 まあそんなことが、コロナ禍以前のオリンピックに対する考え方だった。
 コロナ禍以降は、それまでオリンピックに感じていた矛盾が一気に可視化された印象だった。

 昨年、オリパラの延期・中止が問題となった際、本音では「オリンピックは中止にしてオリンピックそのものを考える機会になればいい」「だがパラリンピックは延期して開催してほしい」と思っていた。オリンピックに比して、パラリンピックはまだまだ担う役割が大きいと思うからだ。以前より知っているブラインドサッカーの選手たちの場が失われてほしくないという、極めて個人的な気持ちもあった。

 パラリンピックは障害者スポーツのメジャーで、もっとマイナーな競技に目を向けてほしいという強い気持ちはあるが、東京パラリンピック開催が決まったことで変化したことはとても大きい。障害者スポーツは厚生労働省、“健常者スポーツ”は文部科学省という縦割り行政にもメスが入り、今まで何の関心も示さなかった人たちが障害者スポーツに関心を持ち、様々なバリアフリー化も進められてきた。ただ多数の観客で埋まったロンドンパラリンピックが障害者の理解へはつながらなかったと当事者の多くが感じているという事実を、どう超えていくかは問われてくるだろう。

 だがいつかはパラリンピックも、ある種の役割を終え、変容していくものなのだと思う。
 
 オリンピックに関して、なかなかフラットな立場で人と話をすることもなかったので、駄文を書き散らしてみました。


東日本大震災から10年 福島、宮城に行ってきた

2021年03月14日 | 日記

 東日本大震災から10年。これまでボランティアとして幾度となく被災地を訪れているちょんまげ隊長ツンさんの誘いで、310日~11日と福島、宮城の被災地を巡ってきた。ツンさんは、ちょんまげ姿で有名なサッカー日本代表サポーター、拙作「MARCH」のプロデューサーでもある。 

 緊急事態宣言下ということでの躊躇、この日だけ行ってどうなるのだろうという気持ちもあったが、公文書の改ざんを強いられ自らの命を絶つことになった、故・赤木俊夫さんの奥様である雅子さんと合流する予定もあるということを聞き、「それならば」ということで即決。以前にも雅子さんにお会いしたことはあったものの短い時間言葉を交わしただけで、改めて「応援しています」という意思を明確に伝えたかったし、夫を亡くされた雅子さんが被災地でいろいろと感じられるであろう、その様子を感じ取りたいという、いささか不純な興味も相まってのことだった。

  出発に当たっては、被災地巡りの参加要件だったPCR検査を受けた。民間で格安に行っているもので疑陽性の場合もあったりするらしいが、やらないよりははるかに良いだろう。

  まず向かったのは福島県広野町、サッカー日本代表のシェフ西芳照さんのお店クッチーナ。代表戦当日選手たちの定番カレーでお腹を満たす。その後、Jヴィレッジへ。震災後は避難所、自衛隊、そして原発作業員の方々の拠点となりピッチは駐車場として利用されていたが、現在はサッカートレーニングセンターとしての姿を取り戻しホテルも新設された。ピッチ上に作業員の仮設寮が立ち並んでいたJヴィレッジスタジアムは鮮やかな天然芝に。“246でずっと止まっていた時計も動き出している。


 
 2011311日午後246分、私はといえば、東京の自宅でサッカー日本代表が優勝したアジアカップDVD編集の真っ最中だった。揺れ始めた瞬間は「編集データがふっとんだら大変だ」と思ったが、TVをつけるととんでもない規模の震災に言葉を失くした。だが納期が迫っている身としては、3月中、震災から背を向け「こんな時に俺何やってるんだろう」と思いつつ不眠不休で編集作業を行なわなければならなかった。長友選手のクロスからの李忠成選手のダイレクトボレー。ザッケローニ監督のインタビュー等々。
 やっと作業は終わったものの、東北にボランティアや撮影に行くこともなかった。その年の暮れにブラインドサッカーパラリンピック最終予選が宮城県で開催された際に、せめてもと石巻から女川に足をのばした。女川では、かなりの高さの高台にある病院の一階まで津波が押し寄せたと聞き、津波の巨大さを実感した。病院横の仮設店舗のカフェに入ると、乳飲み子を抱いた女性が出迎えてくれた。赤ちゃんは、震災後5月の生まれで朝日ちゃん。「たとえ停電して真っ暗闇でも、朝になれば太陽は昇ってくる」。そんな思いからの命名だという。
 その後の2015年、前述のツンさんより南相馬市小中学生マーチングバンドの短編ドキュメンタリー映画「MARCH」を作ってほしいという依頼があり、何も関われていないという忸怩たる思いもあって快諾。福島県浜通りに何度も通うことになった。映画の内容は試行錯誤したが、女川で出会った朝日ちゃんのことを思い出し、ラストは朝日だということだけは最初から決めていた。

  ちょんまげ隊一行はJヴィレッジスタジアムを後にし、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区にある「閖上の記憶」へ。この場で合流予定だった赤木雅子さんや、長らく森友問題を取材している記者の相澤さんは既に到着しており、翌日「追悼のつどい」で飛ばす予定の「ハト風船」にメッセージを書き込まれていた。雅子さんは、故・俊夫さんへの、似顔絵付きの思いっきりのラブレター。「閖上の皆さんと仲良く」という言葉も添えて。相澤さんは、現場に戻るきっかけになった震災についての書き込み。俺はといえば「いつまでも忘れません」という月並みなことしか思い至らず。「ああ、しかしいったい俺は、彼ら彼女らの何を知っているというんだ」。せめてもと展示物を見て何故チューリップの写真があるのかなと眺めていたら、中学113歳の息子さんを亡くされた語り部の丹野さんが教えてくれた。慰霊碑の横に多くの球根が植えたが、花が咲いたのは亡くなった中学生14名と同じ数の14本だったという。 
 その後、慰霊碑に刻み込まれた中学生たちの名前に手を置き、手を合わせ閖上を後にした。

 次に向かったのは74名の児童と10名の教職員が命を落とした石巻市大川小学校。北上川を横目に見ながら、大川小学校に向かっていく。穏やかな気候でこの川を津波が遡っていった様がなかなか想像できない。大川小は震災遺構保存のための工事中で、児童たちが40分ほど待機していた校庭には入ることができない。校庭は裏山と連なっており「あの場所に避難できていたら」と思わずにはいられない。裏山へ上る道は、(現地では直接の確認はできなかったが複数の写真や映像を見る限り)教職員が低学年のサポートをすれば小学生でも上れる傾斜のように思える。ただ余震による崩壊や落下の心配はあっただろう。当時は津波が来た際の避難場所が特定されておらず、教訓として語り継がれていくべきことだろう。教職員のご遺族の方々は複雑な思いを抱いておられるとは思うが。

  そして女川。201112月とは様相が一変。病院にある高台に上がっても高さを感じないのは、全体がかさ上げされたためだった。

  宿は牡鹿半島、西の海岸線にある小渕浜の「めぐろ」。震災当時は道路が分断され支援もままならず、最初の支援は別の港からきた漁船だったという。骨まで食べられるキンキのみぞれかけ、新鮮なワカメやメカブのしゃぶしゃぶ等の料理に舌鼓を打った後は、地酒を飲みながら、地元の方々も交えた語り合い。 
 家を流された方、息子を亡くされた方、そして赤木雅子さんの思いと共感が交錯する。濃密であり、厳粛であり、どこかリラックスした時間。
 たただただその言葉群を、震災復興純米酒「閖」とともに流し込んだ。マスクを着脱しながら。

  翌日は、南三陸町防災庁舎の遺構、気仙沼経由で、南三陸ハマーレ歌津へ。そこは何故か多数のJリーグフラッグがはためく商店街。震災後、オープンしした仮設商店街に大漁旗を飾ったそうだが返却しなくてはならず、「大漁旗が無くなるとさみしくなるよね。目立つ旗が欲しいな」という呼びかけに、Jリーグのサポーターたちが応じてどんどんフラッグが増えていったそうだ。近隣の子供たちは大喜び。その流れのなかでツンさんとの交流も生まれ、311日の慰霊献花式に毎年参加させてくれるという。当日の会場設営は松本山雅サポーターが担った。


 午後246分に黙祷。その後、花を手向けさせていただいた。
 そして10年前の津波が襲ってきた時間が近づいてくる。なんともザワザワした感情。

  その後は一路福島浜通りへ。6号線沿いの現在の風景を車内から見渡しながら南下。10年間、時が止まったままの場所も多い。
  福島第一原発のデブリは、何十年という単位で取り出せるものなのだろうか。

 そして富岡の「富あかり」会場へ。震災で亡くなった方への鎮魂の祈りと、未来への希望を込めて、竹あかり(竹灯篭)80本、三角灯篭660個に火を灯すというもの。1730分から始まった点灯はすべて終わった後で幻想的な雰囲気を醸し出していた。三角灯篭には「たちあがろう」「もうすぐ戻るから待ってろ」の思いを込めた文字。そして花火も打ち上げられた。

 東日本大震災から10年。TV等でも様々な特集が組まれていたが、正直、(言葉は悪いが)いささか食傷気味というか、頭にすんなりと入ってこないこともあった。

 駆け足で回った2日間では未だにただただ言葉を失くすことも多かった。だが具体的な顔が見え、あそこで出会ったあの人が生きている町、あの風景のなかで生きている人々、と少しだけ思えるような気がする。 
 そういう意味でも、直接足を運ぶことは貴重だった。

 町の復興の進み具合はまちまちだったが、複数の方が語っていたのは「こころの復興は全く終わっていない」ということだった。


NHK「これでわかった!世界のいま」

2020年06月10日 | 日記

NHK「これでわかった!世界のいま」のアニメ動画に抗議が殺到。動画はTwitterからも削除、番組自体もNHK+から削除された。削除される前に番組全体を見たが唖然とした。

動画は白人警官による黒人殺害理由の一般論が述べられた後に流された。
「理由は諸説ありますが、その一つとして白人警官には黒人に対する漠然とした恐怖心があるからだと言われているんです。以前私がロサンゼルス市警のパトカーでのパトロールに同行したことがあるんですけど、黒人やヒスパニック系の人たちの、特に治安の悪い地区に入っていく時に警察官たちはかなりの緊張を強いられていたんです。やはりアメリカは銃があふれているからということもあります。ある警察官は『毎日生きて帰ってこられるかわからない。そういう思いでパトロールに出ています』と話していました」

番組では次にフリップを出して説明。なので理由の説明はこれで終わったのかと思った。

「アメリカでは年間1000人が警察によって射殺されている。確率でみてみますと黒人は白人の2.5倍にものぼっています」

その後にとってつけたように、
「白人警官の側にはわずかな油断が命取りになるという思いがあるのかもしれませんが、これは何もしていない黒人からすると差別でしかないという構図にもなっています」と続いた。
あまりにもとってつけたようであっさりしたものだったので、初見の時には聞き逃してしまった。念のため、この箇所を聞き返したら差別に言及していることがわかった。

そして経済格差の話題へと移り、アニメ動画が流された。
アニメは経済格差に怒った黒人が抗議、あるいは暴徒化するという流れ。

殺害理由への言及も、アニメも、番組全体も、黒人が怖いものというイメージで統一されていた。差別という言葉はほとんど使われず、暴徒化という言葉は何度も繰り返された。耳を疑うほどだった。

黒人の『暴動』は、トランプが大統領になって始まったものではなく、黒人のオバマ大統領の時からあったということにも言及。
黒人であるオバマ大統領も止められず、オバマの非力さが協調された。

また番組の公式Twitterに今でも残されているが、
「アメリカ社会は、考え方の違う両者が互いにののしり合って、どんどん分断が深まってしまったんだ」
罵り合うこともあったかもしれないが、「差別する」「差別をやめろと主張する」 それは罵り合うことではない。

こんな番組が‪日曜の夕方6時から‬、公共放送の地上波で、子供・家庭向けに流されていた。

黒人の怖さや分断ばかりを強調するのではなく、「やり方を変えよう。平和的にやっていこう」といった故人の弟の言葉や、ひざまずいてデモ隊に連帯を示した警官でも紹介したらどうなんだ。


ICU

2020年04月19日 | 日記

ICUということばを聞くと、いつもドキリとします。

16才の時に交通事故で腎臓破裂、緊急手術後、目覚めた場所がICUでした。その時はICUに一人だけでした。
翌日か翌々日、他の患者がキャスターで運ばれてきました。
その数時間後だったでしょうか翌日だったでしょうか、医師、看護士、親族らしき人が周りを取り囲んでいる風景がチラリと見えました。寝返りも打てないので、横目で視界に入る程度です。
そして音が一瞬無くなりました。その後、漏れ聞こえてくる嗚咽の声。

「死んだんだ」少年の俺は思いました。

その翌日か翌々日、また患者が運び込まれてきます。同じような光景が繰り広げられ、一瞬の静寂がおとずれます。
そしてまた3人目が…。
静寂の瞬間、息をしているのは俺だけでした。
1週間ほどの間に、3人の方がICUに運び込まれ、命を落としました。
「なんて人間の命ははかないんだろう」

そしてやっと生き延びて、ICUを脱出することが出来ました。
ICUが死へと向かう場所でないことを願います。
生き抜く場所であることを。
ICUにも入れず、その前に息絶えるとしたら、あまりにも無念です。


代表カレー食って福島第一原発、野馬追

2016年07月22日 | 日記



日本代表シェフ西さんのお店『くっちぃーな』で代表カレーを食べました。このカレーを食べたのは1年ぶり、伊達と相馬の合戦フェスティバルで食べて以来。
サッカー日本代表、U23代表でも試合の日に食べられていたカレー。素朴ななかにもアクセントが効いた食べやすいカレーです。
西さんには短編ドキュメンタリー映画『MARCH』でとてもお世話になりました。著作を読んだり話を聞くことで南相馬市小高区やJヴィレッジなどの背景を知り、何よりも美味いもの(カレー以外)を飲み食いさせてもらい活力をもらいました!
今回、西さんはサッカー五輪代表帯同のため不在。五輪代表選手たちも西さんの料理で活力を得ることでしょう。
ちなみにリオ・デ・ジャネイロ五輪予選のDVD制作では西さんにもインタービューし最終予選の食事のことに関して語っていただきました。一連のDVDのシリーズで監督選手以外にインタビューしたのは初めてです。他に早川コンディショニングコーチにもインタビュー。もちろん手倉森監督も。選手は遠藤、植田、中島選手にインタビュー。

腹ごしらえした午後からは福島第一原発の視察に行きます。
元東電社員の吉川彰浩さんが立ち上げたAWF主催の視察ツアー、誰でも参加できるわけではありませんが条件に合致すれば参加することが出来ます。
吉川氏は先月発売された『福島第一原発廃炉図鑑』の共著者でもあります。本は廃炉に関する情報を網羅した〝百科全書〟的な作り。なんだかなあという箇所もありましたが、総じてわかりやすい作りになってます。

その後は南相馬へ向かい3日間、野馬追の撮影。映画『MARCH』で野馬追の映像を提供していただいたお礼に、撮影のお手伝いで行きます。

前述した合戦フェスティバルは今年も相馬市のわくわくランドで明日23日に開催されます。

サッカー五輪予選DVDは現在発売中
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B01GCCVNZA/ref=mp_s_a_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&qid=1468952834&sr=8-1&pi=SY200_QL40&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%A3%E8%A1%A8+%EF%BD%84%EF%BD%96%EF%BD%84