サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

サムライブルーの意思統一とコンディショニング

2014年07月16日 | サッカー

今大会のサムライブルーに関して、いまだ“もやもや感”がおさまりません。
もやもや感解消のために、おちゃらけたことも書いたりはしていたんですが。

それはともかく、何がもやもやしているかと言えば、結果ではありません。
結果に関しては、以前グループリーグ突破確率54%、敗退の確率は46%くらいと書いたように、敗退も充分あり得ると覚悟していました。もちろん勝ち進んでくれることを願っていましたが、以前と違い相手も日本のことを相当研究してきますし、突破は簡単ではありません。
しかし多くのメディアやライトなファン層が敗退だけを受けていろいろと言うので、よけいにイライラとモヤモヤが高まったりもするのですが。

では、もやもやしているのは何かというと、意思統一とコンディショニングです。

意思統一とは、ピッチ上の選手たちの意思統一ができていなかったこと。
初戦のコートジボワール戦の前半で、前線の選手は「前から」いこうとしたが、中盤より後ろの選手はさがってしまった。
今大会に臨むにあたって多くの選手は、ディフェンスラインを上げて「前から行く」サッカーを志向していました。それは南アフリカ大会で「引いた」サッカーをやったことから一歩前に進むためでもあったわけです。
もちろん時間帯によっては「引いて」ブロックを固めることもあっていいのですが、後ろは「引いた」けど、前は「前から」いった。まったく連動していなかったわけです。
私は、日本チームの強みは「意思統一」ができることだと思っていました。ジーコ監督時代の反省などを踏まえ、その点は最低限、できていなくてはならないという言い方も出来るかと思います。
意思統一することなしに相手に勝つことは出来ませんし。
そこが出来ていなかったことがショックで、何故なんだろうと、いまだにモヤモヤ感が残っている点です。

ところで先日のNHKやTBSの総集編では、1点先制したことにより守備の選手は守りに入り、攻撃の選手はもう1点を取りにいこうとした。その点で意思統一ができていなかったというくくりだったのですが、とても違和感がありました。先制する前も先制した後も、あまり変わりがないように見えたからです。守備の選手としては立ち上がり慎重に入り引いてしまい、先制したことでその状態を持続したということでしょうか。
ただハーフライムに話し合いや監督の指示もあったでしょうし、後半、遠藤選手が出てきてドログバ選手が出てくるまでの時間帯は、前から行くという「意思統一」がある程度できていたように思えます。
(その点は両方の総集編も無視、省略していました)
しかしドログバ選手が出て再び「引いて」しまった。そこでまた「意思統一」が崩れた。前半頭から「前からいく」守備で入っていれば、ずるずると下がらなかったのかもしれません。
おそらくザッケローニ監督のゲームプランでは、長谷部選手が出場している時間帯はまずは失点しないことが優先、遠藤選手が交代出場した後に1点とって勝つ、あるいは最低でも引き分けるというゲームプランだったのでしょうが、だとしたら監督の前線の選手に対する指示が不適格だったということになりますが、そのあたりのことはよくわかりません。2失点してからはザッケローニ監督も混乱していたのか、ぐちゃぐちゃでしたけど。
とにかく90分を通してチームが一枚岩ではなかった。それだけは確かです。
もちろん相手があることですから、こちらのやりたいようにやれるわけではありません。
コートジボワールは、ボランチが下がって右サイドバックがワイドにはり、日本の守備の弱点の左サイド(香川選手サイド)をついてきた。研究してきたといえばそれまでですが、誰もが考えそうなことでもあります。
とにかく選手監督を含めての意思統一ができていなかった。そこがショックでいまだにもやもやしている点です。
言い方を代えれば、意思統一が出来ていなかったことが敗因のワールドカップは見たくなかったということでもあります。だってそれならば自滅だし。

もう一点はコンディショニング。
ジーコ監督時代、ドイツ大会でコンディショニングに失敗したことを受け、南アフリカではコンディショニングがうまくいきました。コンディショニングの勝利といってもいいくらいのことだったと思います。
その流れもあり、コンディショニングは日本サッカーの強みだと強く信頼していました。
ところがどうにもコンディショニングがうまくいっているようには見えなかった。
怪我をしてリハビリをしていた3選手(内田、吉田、長谷部の3選手)は、割合うまくいっているように見えましたが、それ以外の選手のコンディショニングがうまくいっているように思えなかった。
いったい何故なのか?
多くのメディアの方々も指摘していますが、情報は不足しているようで、いまだ闇の中です。
その点はとてもとてももやもやしています。

上記の2点は日本代表を信頼していたのに…、なんだか裏切られてしまったような印象なんです。


ところで多くのメディアで語られている「世界との壁」という言い方はとても違和感があります。
ザッケローニジャパンが、日本代表史上最強だったことはまぎれもない事実だと思います。
各選手の調子が良かった時というエクスキューズはついてしまうのですが。
しかしワールドカップで結果を出せなかったことも、また事実。
もっともっと健全な批判はあっていいと思っています。

ただ4年前のような戦い方をするべきだったという批判は、かなり違和感があります。
「そうではない戦い方をする」と多くの選手たちも言い続けてきたからです。
しかしザッケローニジャパンが嫌いな人もいるでしょうし、ずっと4年間嫌いだった人はそういう批判の仕方もありだと思います。

 


ずっこけフリーキックで世界に挑め

2014年07月16日 | サッカー

NHKのW杯総集編を見ていたら、ドイツのずっこけフリーキックの場面があった。生中継でも見ていたけど、アルジェリア戦だったかな。わざと“こけた”トリックプレーだったのか?本当にこけたのか?
わざとだとしたら、先に笑いを取られて悔しくないのか日本代表!
…そんなわけないか。

日本代表もロシア大会では、EXILEみたいな動きとずっこけで幻惑して、FKを決めてくれ!
世界から驚きと笑いを取り、ついでにゴールも決めてほしい。
サッカー特番に出演しているお笑い芸人たちも知恵を絞ってトリックプレーを考えて、秘密裏に日本代表の選手に進言しワールドカップで決めてもらい、“驚異のトリックフリーキック秘話”と銘打って特番やったらどうだ!
そんな番組だったら見たいぞ!
正直タレントの出るサッカー特番は、早送りで見ても最後まで見るのがつらい…。

でも真面目な話、セットプレーの工夫はもっとあってもいいと思う。
完成度の高い“ずっこけフリーキック”見てみたいなあ。
そういった遊び心というか、心の余裕がほしいなあ。


“ずっこけフリーキック”で思い出したのだが、何十年か前の高校野球部時代に“ずっこけダブルスチール”というのをよく練習した。
(サッカー部とよく勘違いされるのだが、中学・高校と野球部です)。
走者1塁3塁で左投手の場面、投手はセットポジションで一塁方向を向いている。で、その時一塁ランナーがリードしながら(わざと)こけちゃうんです。そうすると投手は一塁に投げる。ランナーは即座に立ち上がって二塁へ、あわてた一塁手は二塁へ送球、その間に三塁ランナーがホームを踏む。といった筋書。
で、実際、こける練習してました。なかなかむずかしいんですどね。


W杯終幕~そして日本サッカーの未来は明るい 

2014年07月15日 | サッカー

少々、能天気なタイトルをつけてしまいました。
「サムライブルー」から「町人ブルー」「商人(あきんど)ブルー」へ
というタイトルをつけていたのですが、なんだかよくわからないかと思い、変えました。

ワールドカップはドイツの優勝で幕を閉じました。
決勝はもう少しドイツよりの試合になるかと思いましたが、どちらが勝ってもおかしくない試合でした。
延長後半は、ドイツのセンターバックであるフンメルスやボアテングがかなり足にもきている印象だったので、むしろアルゼンチンに点が入るかもしれないと思いながら見ていました。そういったなかドイツのシュバインシュタイガーが止血のためにピッチを離れます。その間数的有利になったアルゼンチンのセンターバックのガライやデミチェリスにわずかながらの余裕ができる。シュバインシュタイガーがピッチに戻った後、その余裕が、集中力のわずかな欠如を招いたようにも見えました。
何といったらいいか、例えば徹夜明けで仕事をしていて一瞬でも休憩してしまったら眠ってしまうみたいな、そんなぎりぎりの勝負を感じました。
ちろんゲッツェのトラップからのシュートは素晴らしかったですけどね。
本当に目の離せない試合でした。

さあそしてサムライブルーです。
この先は好き勝手というか、かなりざっくりとした感じで書いておりますので寛大な気持ちでお読みください。

サムライブルーのグループリーグ敗退後、「“自分たちのサッカー”って何なんだよ」「そんなもんがそもそもあるのか!」「100年早いわ!」などと、批判的な言質も飛び交っていたようです。
“自分たちのサッカー”とは、広義の意味では、“日本のサッカー”、“日本らしいサッカー”とも言い換えられると思います。狭義の意味では、4年間積み上げてきたサッカーということになりますが。
では日本らしいサッカーとは何かといえば、「攻守に渡ってコンパクトさを保ち、ショートパスを主体に攻撃を組み立てる」。そういった感じのサッカーだと思います。
もちろん応用編としていろんなバリエーションがあるかと思いますが、誰が監督やってもベースはそのあたりにあると思います。まあ要するに体が大きいわけではないので、前提条件として選手間の距離を近くしなくてはならないわけですね。
もちろんディフェンスラインを高く保つだけではなく、ラインは下げながらも全体はコンパクトにするということはあるわけです。それが南アフリカの岡田ジャパンだったわけです。それでざっくり言うと「ブラジルW杯ではディフェンスラインを上げよう」ということになったわけですが、上げられなかった。相手チームに下げさせられたというより、下がってしまった。しかし前線は下がらなかったのでコンパクトさに欠けてしまった。
とまあそんなこんなでグループリーグを敗退してしまいました。

逆に言うと、日本らしくないサッカーというかやってはいけないサッカーは、間延びしたサッカーということになります。
前線のFW(フォワード)からディフェンスラインまでの距離が遠いということですね。
もちろんサッカー的に絶対ダメということではなく、長身の選手が多数いてロングボールを多用するチームはそちらの方がやりやすかったりすることもあるわけです。

もう一点、W杯を通じて言われていることは、一つの形では勝ち進めないということ。
例えばオランダが伝統の4・3・3を封印して、5バックで臨む。しかし時には4・3・3も使う。
あるいは優勝したドイツも複数の戦い方が出来ていた。
日本はそういう戦い方ができていなかった、というわけです。
しかしそれは4年前からわかっていたこと、ザッケローニ監督は3・4・3も根付かせようとしたが根付かなかった。

ここから話は飛躍していきます。さらに寛大な気持ちで読み進めてください。
日本サッカー、日本人らしいサッカーを改めて考えてみます。
遠い将来の未来像です。
実は私は「変幻自在に戦い方を使い分けられるサッカー」こそが日本のサッカーなのではないかと思っています。昔からそう思っているんですが、時々話しても誰も相手にしてくれません。笑われて終わりです、ハイ。

日本人って、愚直なまでに同じことを追及するというよりは、相手に合わせてカメレオンのように形を変えることのほうが実は得意なのではないかと思っています。
「言われたことしかできない」ということが日本人の特性だと語られることがありますが、それは明治時代以降富国強兵の政策のもと、そう慣らされてしまったのではないかと思っています。
日本に昔からある伝統と思われていることでも実は明治から始まったものはとても多い。
ほとんど明治から始まったくらいに思っていたほうがいいくらいかもしれません。
明治以前の日本人は、よくも悪くも「いい加減」というか「ほど良い加減」で、実は相手に合わせるのが上手かったのではないか。自然ともうまく折り合いをつけて生きてきたでしょうし。
ここでいう明治以前の日本人はサムライではなく、町人や商人(あきんど)などの庶民です。江戸時代に限定しているわけではなく、日本人の庶民に脈々と受け継がれてきたものを漠然とイメージしています。
建前と本音で言えば、建前がサムライ、本音が庶民ですね。
そこで「サムライブルー」から「町人ブルー」「商人(あきんど)ブルー」へという冒頭の言葉につながってくるわけです。
建前のサムライはもろいわけです。

ところで明治時代の「武士道」は新渡戸稲造が欧米向けに創作したもの。武士道は明治時代に生まれたわけです。本来、武士は死んではいけなかったわけですが、死ぬことが美徳のように書かれている。死ぬのは負けですから、主君のためには相手を殺さなければならない。死なずにに勝つためにはいろいろと知恵もしぼらなくてはならない。宮本武蔵も勝つために、手段を選ばずというより、工夫を凝らした。その後、武士はどんどん官僚化(官僚化という言葉が適切かどうかよくわかりませんが)していくわけですが、侍が存在している時には、現在認識されているような「武士道」は存在しなかった。

いわゆる「武士道」の“サムライ”が集まった“サムライブルー”では、融通も利かず、一つの戦い方しかできず、工夫も足りず負けてしまうわけですね。
また「美しく散るサッカー」が日本のサッカーだとも思っていません。

「変幻自在に戦い方を使い分けられるサッカー」に話を戻します。
現在の日本にはそういった戦い方はまだまだ無理だと思いますが、サッカーがより深く日本人の心の中に浸透した20~30年後あたり、平成生まれの日本人監督が代表監督を務める時代になれば、そんなサッカーが見られるのではないかと思っています。
全くのオリジナルを生み出すことは苦手でも、取り入れたものをうまく活用し発展させることは、日本人は得意なのではないか、そんな気がします。
セットプレーのアイディアなんか考えるのも本来得意なのではないかと思います。
(電動車椅子サッカーのセットプレーなんか見ていてもそう思います)
そのあたりは早くに手をつけられるかもしれません。

かつて日本の輸出品が世界の信用を勝ち得たように、
世界中の人々から「日本のサッカーだったら見て損はないよね」「高い金払ってでも観たいよね」
そう思われるサッカー。
そんなサッカーを観てから、私は死にたい。

なんだか収拾がつかなくなってきてしまいました。
近視眼的に見るだけではなく何十年、何百年単位で見ることも大切というか、楽しいし、などと思い書き込みました。


松森果林さんの「音のない世界と音のある世界をつなぐ」

2014年07月13日 | 手話・聴覚障害

先日、中途失聴者である松森果林さんの著作「音のない世界と音のある世界をつなぐ~ユニバーサルデザインで世界をかえたい!」(岩波ジュニア新書)の出版を祝う会に行ってきました。
そう、あの日は忘れもしない“サムライブルーvsコロンビア戦”の前夜でした。

それはともかく、果林さんは「いくおーる」という聴覚障害に関する総合情報誌に“果林の人生ズンドコ”というコラムを執筆されている時からのファン。映画「アイ・コンタクト」(デフリンピックに出場した、ろう者サッカー女子日本代表を追ったドキュメンタリー)完成後は試写会にも来てもらい、いろいろと告知もしていただいたりお世話になっている方でもあります。

聞こえない聞こえにくい人々に関する映画(アイ・コンタクト)を撮り始め、必要だと感じたことの一つは本を読むことでした。
聞こえない聞こえにくいとはどういうことか、現状、歴史、教育、手話等々、背景を理解することなしには前に進めません。
(もちろんろう学校に見学に行ったり、講演にいったり、手話を学んだりすることも必要でしたが)
しかし本を読めば読むほどわからないことが増えていく。「これを読めばわかります!」という決定的、且つ平易に書かれている本はないのか?と何度も思いましたが、150冊くらいは読んだと思いますがそんな都合の良い本は存在しませんでした。
もちろんお薦めの本はたくさんあります。
1冊をあげるとすれば、「たったひとりのクレオール」(上農正剛・ポット出版)。
500ページを超える本ですが繰り返し繰り返し3度は読みました。
「目からうろこ!」だったのは、脳科学者である酒井邦嘉さんの各著作。

果林さんの著作は、聞こえない聞こえにくい世界を知るうえで、かなりわかりやすい本になっています。
これさえ読めばOKとまでは言いませんが、入門編として画期的な本になっています。
入門編風の本は以前にもありましたが、平易に書こうとするあまりか逆に誤解を与えるような本になっているのでは?という印象の本もあったりしました。

「音のない世界と音のある世界をつなぐ」は、果林さんの人生が凝縮された、生きる決意も読み取れる本です。
少々大げさな物言いになってしまいました。
身近なところから聞こえない聞こえにくい世界を描いてくれるので読みやすいですし、中途失聴者である個人史を描きつつも自らを客観視する視点を持たれているので安心して読むことができますし、尚且つユニバーサルデザインの今も知ることが出来る。読み応え慢性です。しかも読みやすい平易な文章で綴られているんです。

以前、映画「アイ・コンタクト」を作った時に「伝えたいテーマは何ですか?」と何度も質問されたことがあります。私は決まって「いろいろです」と答えます。相手からは肩透かしをくらったような顔をされるんですが。
聞こえないといってもいろいろ、聞こえにくいといってもいろいろ、手話をめぐる状況もいろいろ、その多様性さえ伝われば、ということです。
果林さんの著作にも次のような一文があります。
「世の中にいろんな人がいるよ!」、そのことをどうぞ心にとめておいてください。
そういったように、自らを客観視する視点もしっかりしているので安心して読み進むことができるんです。

しかし、前述したように「これさえ読めばOKとは言いません」。
その意味は、先天性のろうと中途失聴者ではとても大きな違いがあるからです。
もちろん果林さんは、そのことに充分留意されて書かれています。
しかし何も知らない聴者(聞こえる人)は、中途失聴者の半生を“障害を乗り越えた感動的な視点(?)”だけで読んでしまいがちです。聴者の先入観はとても恐ろしいです。ありのままを見つめず自らの都合のよい感動物語だけをピックアップし見たり読んだりすることも多いように感じます。テレビなどの悪しき影響かもしれません。
どちらかと言えば聴者にとって、先天性のろう者よりは中途失聴者の方の方が理解しやすいように思います。
もちろんその苦悩を窺い知ることはなかなかできませんが。
音に接したことがない、第一言語も日本語ではなく日本手話である先天性のろう者は、聴者からみるとかなりわかりにくい存在です。
まあだからこそ、果林さんも「音のある世界と音のない世界をつなぐ存在」になろうとされている側面もあるとは思うのですが。
「音のない世界と音のある世界をつなぐ」を読んだ後は、先天性のろう者が書かれた本、あるいはそういう方について書かれた本を読まれることをお薦めします。

「音のない世界と音のある世界をつなぐ」という本はかなり高度なミッションに挑み、かなりの成果を出している本であると思います。
聞こえない聞こえにくい世界のことを全く知らないかたはもちろん、聴覚障害者当事者や手話学習者などにとってもユニバーサルデザインの今を知る貴重な本にもなっていますし、お薦めです。お値段も860円+税と割安ですしね。

あ、それから松森果林さんご本人はとっても素敵な方です。俺みたいな愛想のないオヤジとは大違いです。

本当は読んだ勢いで書き込もうと思っていたのですが、ワールドカップ観戦にかまけて延び延びになってしまい、少々とっ散らかった文章になってしまいました。

ところでサッカーに多少でも興味がある方ならば、サッカーを通して聞こえない聞こえにくい世界を知ることができる「アイ・コンタクト」(岩波書店)という本もあります。
著者は、私、中村和彦なんですが…。


今さらですが、コートジボワール戦のことなど

2014年07月13日 | サッカー

ワールドカップも3位決定戦と決勝を残すのみ。
決勝トーナメント以後、見ることに精一杯でワールドカップ関連のブログ更新を怠っていました。
Facebookには、少々書き込んだりしていましたが。

以下はベスト16のオランダ戦終了後あたりに、下書きだけ書き込んで放置していたもの。
コートジボワール戦を何度か見返して書き込んだものです。
後できちんと加筆訂正しようかと思っていたのですが、ほぼそのままアップしておきます。
備忘録を兼ねてということで…。


ワールドカップも決勝トーナメントに入り、痺れる試合が続いています。
特にオランダ対メキシコ、オランダのファン・ハール監督の采配には痺れました。
度重なるシステム変更がうまくいったのも、4・3・3という慣れしたんだベースがあるからこそ。
準々決勝以降のオランダが楽しみです。

日本も4・2・3・1以外にも、何とか3・4・3を根付かせようと、ザッケローニ監督はトライしてきました。しかし結局はうまくいかなかった。
サイドで数的優位になる(はずの)3・4・3をザッケローニ監督も、コートジボワール戦で使えるものなら使いたかったんでしょうが。
将来的には日本代表も、2つのシステムを自在に使い分けられるようなチームになってほしいと思います。

サムライブルーのワールドカップグループリーグ敗退後、何日かたちましたがいまだモヤモヤ感がおさまりません。
特に初戦のコートジボワール戦なんですが。
しつこいようですが改めてコートジボワール戦を少々振り返ってみます。
ちなみにコートジボワール戦は、トータル4回見ました。ディフェンスラインの上げ下げや前線での攻防など生で見ないとわからないことも多いのですが、映っている部分から想像して見てみました。

前半はディフェンスラインはそれほど下がっていないという記事なども読みましたが、やはりどう見てもラインは下がっているように見えます。理由は何かと思い見ていましたが、一因にはセンターバックの森重選手がチャレンジしないで下がってしまうことにあるような気がしました。吉田選手はチャレンジに「行く時は行く」という感じなのですが、森重選手はほとんど下がってしまう。もちろん裏を取られたくないという意識もあいまってラインが下がってしまう。長谷部選手も後ろが気になるようで前線との距離が空いていても前に行こうとはしない。無理をしないほうが良いという判断だったのでしょうか?山口選手は「行くに行けない」という感じに見えました。
前半は1点を取ったものの、とても重苦しい雰囲気で、いわゆる“日本のサッカー”が出来ていなかった。コートジボワールにラインを下げされられたというより、自分たちで下げてしまって間延びしてしまった印象です。
しかしそれにしても信じられないようなパスミスが多い!相手のプレスがかかっでいるわけではない状況でのパスミス、いったい何故だったのでしょう?精神的な問題?コンディション?ピッチの問題?

後半に入ると森重選手がチャレンジに行くようになり、全体にラインも高く保ちコンパクトにしようという意志が見えてきます。ハーフタイムに指示があったのか自分たちで話し合ったのか、とにかく修正しようという意志を感じました。やっと後半になって“始まった!”という印象でした。
そして間もなく遠藤選手が長谷部選手に代わって投入されます。
「長谷部選手を変えるべきではなかった」という記事も読みましたが、ライブで見ている時も見返した時も交代は間違っていなかったような気がします。
長谷部選手は2列目からの飛び出しなどには付いていき良い守りを見せていましたが、マークすべき相手をフリーにしたり、ゲーム勘が鈍っていたのか「読み」が効いていない点もあるような気がしました。また90分間、もつようにも見えませんでした。
勝っている状況に遠藤選手が投入されたことにより、ピッチ上の選手たちが混乱したという記事も読みましたがそうは見えませんでした。
8年前のドイツ大会のオーストラリア戦では小野選手が途中交代で入り混乱があったようですが、今回はそういうふうには見えない。下がって守るのではなく、自分たちのペースを作ることで失点しない。そしてチャンスをつくり追加点を奪う。そういった意思統一があるように見えました。
ある意味、後半頭から失点の時間帯までは、“日本のサッカー”がある程度出来ていた時間帯のような気がします。
遠藤選手もアグレッシブに動き回ります。ガンバでのFW経験がなせる業か、いいタイミングでの上がりもありました。そこは本田選手からパスを出してほしかったですけどね。
そして大久保選手が交代の準備。大迫選手でもまだ“いけた”かもしれませんが、フレッシュな大久保選手が前線に投入されることにより、前線からの守備も期待できますし、前がかりになることが予想されるコートジボワールの裏をついて得点の可能性も高まります。「いいぞ、ザック!」ライブの時もそういった気持ちで見ていました。
しかしそれよりも前にドログバが投入されます。
そしてその後間もなくすると失点を喫することになります。
失点場面を振り返ると、日本はピンチを脱した後、香川選手が持ち上がります。大迫選手が前線で左に流れてパスを要求、香川選手はいったん大迫選手を見るのですが何故か縦へのパスを出さずにすぐ横の本田選手へ不用意なパスを出します。大迫選手は「何故、こっちに出さないんだよ!」と大きなジェスチャー。その後本田選手がボールを奪われます。そこで日本の選手たちは中央を固めるというか、縦を切る。その後、ヤヤ・トゥーレかサイドへパスを展開、そして右サイドバックのオーリエのクロスにボニが頭で合わせます。
 サイドでの守備云々というより、あの位置でボール取られたらまずいでしょ、という取られ方。本田選手のミスや香川選手のミスパスというより、あのポジションで本田選手にパスを出した香川選手の判断ミス、大迫選手へパスを出しておけば防げた失点のように見えました。この試合の香川選手は本田選手に預けることしか頭にないのか、他の選手へのパスコースがあってもパスをしないで本田選手に預けて上がっていくということが多かったような気がします。
同点になった時点で、ザッケローニ監督は大久保選手の投入をいったん取りやめます。しかしアップする場所に戻るや否や、すぐに呼び戻されます。まあ要するに迷いがあったということでしょうが、その間に2失点目を喫します。
2点めの失点場面を振り返ると、コートジボワールが自陣左サイド(日本の右サイド)からドロクバめがけてアーリークロスを放り込みます。吉田選手が跳ね返しますが、日本はセカンドボールへの対応が遅れてコートジボワールのジェルビーニョがボールをキープします。

ジェルビーニョが中央の選手にバスし、ダイレクトで右サイドバックオーリエにボールが渡ります。日本はコートジボワールのパス回しについていけません。
ジェルビーニョはパスを出した後、巧みに長友の視界から消えフリーになります。いい時の長友選手なら問題なくついていけると思うのですが、どうにも体が重いように見えます。吉田選手にもマークすべき相手がいたため、本来は長友選手が遅れてでもジェルビーニョに付いていくべきだったと思うのですが、あのポジショニングはどうだったのでしょうか?オーリエが縦に突破してきた時に備えたポジショニングだったのかもしれませんが、どうにも中途半端なポジショニングに見える。
そのジェルビーニョにオーリエがクロスを合わせゴールを決められてしまいます。
最初にライブでみた時は、香川選手の守備の弱さをつかれたと思いましたが、ことはそう単純ではなさそうです。
オーリエはここまでも一貫してサイドに開いており、香川選手の攻め上がりを自分が前がかりになることにより防いでいました。そういったコートジボワールの狙いがはまった側面もあると思いますが、日本の選手のコンディションにも問題があるように思えて仕方ありません。
また結果論で言えば、そのまま大久保選手を投入していれば前線からブレスをかけ失点が防げていた可能性もあります。前述したことに反しますが長谷部選手ならセカンドボールにうまく反応できた可能性もあります。
ドロクバの存在感が失点の原因という報道もありますが、“直接的には”そうは見えません。しかしドロクバの投入によりコートジボワールの選手のスイッチが入ったということはあると思いますので、試合会場で観戦していればそういった空気感を感じ取れたのかもしれません。

日本はその後、大迫選手に代えて大久保選手を投入、1トップに入ります。
そして香川選手と岡崎選手が左右を交代。何かの伝達間違いだったのか、左サイドの守備強化のために岡崎選手を左に回したのか?よくわかりません。
その後、香川選手がトップ下、2列目左に大久保選手、右に岡崎選手、1トップに本田選手が入ります。
点を取る確率を高めるたっめというよりも、サイドの守備が不安て香川選手をトップ下においたように見えました。香川選手の場合、サイドでの守備に弱点があることは誰もがわかっていること。トップ下は香川か?本田か?という議論が随分とありましたが、本戦でそのことを突き付けられたようでこの布陣変更はライブで見ていた時もショックでした。
大久保選手が1トップに入っていたほうが得点の可能性は高まったと思います。
香川選手のサイドでの守備に不安を感じるなら、同点の時点で大迫選手ではなく香川選手に代えて大久保選手を投入し、それ以上の失点を防ぐ方法もあったかもしれません。
その後41分に柿谷選手の投入などがありましたが、全く得点の気配が漂わない。
その後、アディショナルタイムに入ってパワープレー。
Liveで見ている時は違和感がありましたが、試合を見返してみると、あの状況でなら手を打たないよりはパワープレーもありかと思いました。
吉田選手も感じていたように、ディフェンスラインで余っていてもしょうがないですからね。
ただ逆にパワーブレー一辺倒にならなくてもいいような気がしました。吉田選手が囮になって、別の攻撃パターンがあってもいいような気がしました。
遠藤選手を経由すれば、そういった使い分けもあったのではないかとも思いました。

(ここまでが下書きしていた部分です)

それにしても日本チームのコンディショニングがどうだったのか、とてもとても気になります。
特に長友選手と岡崎選手。

岡野俊一郎さんは、コンディショニングが失敗だったと言い切ってますが…、どうだったんでしょうか。