サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

日本代表激闘録 12月18日発売

2013年12月15日 | サッカー

先日もお知らせしましたが、私がディレクターを務めさせていただきました
日本代表激闘録 2014FIFAワールドカップブラジルアジア地区最終予選」が
今週水曜日12月18日にポニーキャニオンより発売されます。
http://hp.ponycanyon.co.jp/pchp/cgi-bin/PCHPM.pl?TRGID=PCHP_SKH_1010&CMD=DSP&DSP_SKHBNG=201300001258&DSP_SKHKETSEQ=001


ワールドカップ最終予選をまとめた内容で、ザッケローニ監督や各選手のインタビューが盛り込まれた内容です。
インタビューした選手は、香川、岡崎、遠藤、長谷部、長友、今野、吉田の各選手。
そのために、大阪、イギリス、ドイツ、イタリアなどへ行って来ました。
ワールドカップ最終予選を振り返ってもらうのはもちろん、世界へ向けての思い、足りない部分、ディフェンスライン、ワールドカップでの戦い方など、ワールドカップへ向けてもたっぷりと語ってもらいました。
独自にインタビューした選手以外の選手たちの、試合後や出場決定後のインタビューも盛り込んであります。

試合映像も独自に撮影した映像などを合わせて再編集しています。
自分で言うのもなんですが、オーストラリア戦の本田選手のPKの場面は編集していても思わずガッツポーズしてしまいました。

ザックジャパンの流れを掴むのにも最適な1枚だと思いますので是非お買い求めを!

但し字幕はついていません。聞こえない、聞こえにくい人でお買い求めの方は私宛にご連絡ください。


マンデラ氏追悼式典での でたらめな手話通訳

2013年12月13日 | 手話・聴覚障害

 マンデラ氏の追悼式典での手話通訳がでたらめだったということで昨日から話題になっている。
「あってはならないこと」としたり顔で語るのは簡単だが、気になるのは報道する側が手話や手話通訳のことを理解すること無しに、そのまま報道しているのではないかと思われる場合が多いこと。

わかりにくい点も多々あり、仮に日本で同様の追悼式典が行われ理想的な手話通訳がついた場合と比較して今回のケースをみてみたい。
(マンデラ氏のような世界から惜しまれる人材がいるかどうかということはおいておいて)
但し、発言者はすべて日本語でスピーチが行われると仮定する。

 «日本の場合»
 手話通訳の依頼方法はここでは問わない。依頼方法は一つではないからだ。
 だが最低でも手話通訳士の資格をもっている人に依頼することだけは確かであろう。
 手話通訳士とは厚生労働省認可の資格である。ここでいう通訳は日本語と日本(の)手話の変換である。
 まわりを見渡しても手話通訳士に合格するのは最低10年くらいはかかるようだ、
 ちなみに国際手話やアメリカ手話は、日本手話とまったく別のものである。
 したがって日本手話と国際手話の通訳をつけようと思えば、最低でも2組以上の手話通訳が必要となる。
 通訳する時間は20分が限界と言われているため、通常手話通訳は2人で交代でおこなうためだ。
 日本手話、日本語対応手話、国際手話が必要であれば、最低6名が必要である。
 仮に一つの手話だけしか手話通訳をつけないとすれば、日本においては日本(の)手話ということになるであろう。
 日本手話か日本語対応手話かは曖昧な場合も多い。その点でろう者側からの苦情も多い。

 «マンデラ氏の手話通訳の場合»
  彼への手話通訳依頼が適切であったかどうかは別として、依頼がありIDカードを取得していたことは確かなようである。
  彼個人への依頼であったようである。うまいこと営業をやった成果なのかもしれない。
    そのこと自体は問題ではないが、問題は彼がその仕事を請け負うに値する(南アフリカの)手話の実力があったのかという点である。
  彼の主張によれば、「統合失調症のために当日うまくできなった」ということのようであるが、そういう可能性がある人へ手話通訳の大任を任せてもよいのかという問題もある。最悪交代要員がいればしのげていたという側面もある。
  推測するに彼は手話学習者レベルだったのではないだろうか。何らかの形で登録されていれば、南アフリカの手話通訳団体や聴覚障害者団体が「あんな人は知らない」というようにはならないからである。彼の実力がどの程度かまではわからないが国際手話は全くできないのではないか。通常は国際手話は自国の手話を習得した後に習得するものだからである。したがって式典でも想定されていたのは、南アフリカ(の)手話への通訳だったのだと思う。
   ちなみに日本の手話講習会で2年学んでも、大半の人はいくつかの手話単語を知っているというレベルである。
 私は5年ほど手話を学んでいるが、あのような場で手話通訳をやるなど到底無理である。もしやったとすればしばしば考え込んだり、手が止まったりするであろう。
 「手を止めないためには適当に手を動かすこと」
そういった悪魔のささやきに彼はからめとられてしまったのだろうか?

 一部報道によると、南アフリカでは手話単語を10語ほど知っているだけで手話通訳をやってお金を稼ぐということも発生しているようである。聞こえる人と聞こえない人の1対1の通訳は到底無理だが、講演会や式典のような一方向での通訳の場合はそういったことも起こりうるということである。もちろんきちんと手話通訳ができるわけもなく適当にごまかしているだけである。さも手話通訳やっていますという“演技力”は必要であろうが。
 手話通訳がつく式典や講演であっても、ろう者や手話がわかる人がその場に誰もいないということもあるし、依頼者の大部分は手話はわからないのでチェックしようもない。
少数のろう者から苦情があっても主催者に通訳できる人がいない。仮にろう者と通訳が出来る人が来場していて主催者に苦情を言ったとしても、屁理屈で言い逃れすることもできるかもしれない。
例えば日本の例で言えば「今日は日本語対応手話で通訳をやった。あのろう者は日本手話しかわからず読み取るのがむずかしかったようだ。以前のろう教育では手話が禁止されていて日本語力が低い人も多い。今日の内容はそういったろう者にはわかりにくかったかもしれない。最初からわかっていたらそうしたんだが、云々」などどまくしたてれば主催者を煙に巻くことも出来るかもしれない。

南アフリカでは、手話通訳をつける場が増えた割には手話通訳の数が足りないのかもしれないし、協会などを通して頼むと料金が高いので安く請け負う偽手話通訳者が暗躍しているのかもしれない。あるいは協会を通して頼むと2名来るので、1.5名分を支払うことで主催者も予算を浮かせようとしているのかもしれない。もちろん“偽”ばかりでなく、そのなかにはきちんと手話通訳が出来る人も混じっているだろう。


彼は「はったりかまして手話通訳で儲けよう」と最初から確信犯でいくつかの単語だけ覚えたのか、それとも手話をきちんと習得しようという気はあったものの志半ばで変な風になったのかはわからない。

また彼は第一言語が英語ではなく「コサ語」で、英語からの通訳が荷が重かったという報道もある。

それにしても、こうやって問題化することは容易に想像できたと思うのだが、あえて「手話通訳を引き受けた」のは、断れなかったからなのか、ああいったビッグなゲストの横に立つ魔力に取りつかれたのか? 
よくわからない。


対岸でのトンデモナイ話ということで終わらせるのではなく、日本の手話通訳のことを考えるきっかけになればいいのではないかとも思う。
もちろん日本にはあそこまでいい加減な偽手話通訳者はいないだろうが、日本手話と日本語対応手話の問題、専門性に手話通訳者がついていけていないという問題など課題は様々である。
それ以前の問題として手話通訳者の社会的な地位が低すぎるという問題もある。収入になるどころか下手すると支出の方が上回ったり。

社会の手話への理解もまだまだ足りないし、ろう者への情報保障まだまだ足りないのことは明白である。

でたらめな手話は言語同断だが、堂々と(しゃあしゃあと)していることが良しとされる風潮のなかで起きたことでもあり、その問題点はとてもとても根深い。