かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

深田日本百名山に捨てられた山・拾われた山

2021-10-01 18:01:48 | 日記

コロナ関連のあらゆる宣言が解除された(感染者が減った理由が専門家でも分からないという)晴れ晴れしい10月の始まりだというのに、台風16号の接近による雨が時間を追うごとに強くなっている。

こんな時は、じっくり家でこのブログを書いたり、関連の書物に目を通したりしよう。

ということで、深田日本百名山の思い出の項で21番目の「安達太良山(あだたらやま)」のところで、深田さんの文章を読み進めていた。

深田さんは、二本松市の岳温泉から登ってくろがね小屋に一泊し、「ヤブがひどく通行不可」と昭文社版「山と高原地図」最新版に示されている母成峠(深田さんは保成峠と表わしている)に下り、岩代熱海温泉(今の磐梯熱海温泉)へ向かっている。もちろん歩いたのだろう。

登り始める前に深田さんは、高村光太郎夫妻が腰を下ろした裏山の崖のある丘に「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡っ」ている秋の末立ち寄って、

「あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。」と光太郎さんの詩「樹下の二人」のフレーズを現地で確認しており、深田さんも文学者らしいロマンチストなんだなと感心した。

百名山の記載には、深田さんが安達太良に登った年月が記されていないので、朝日新聞社「深田久弥・山の文学全集」12巻にある年譜を調べたが記載がない。

光太郎さんが「智恵子抄」を上梓したのは1941年、太平洋戦争勃発の年であり、深田さんは出征や戦後の疎開生活などで、東京に家を持つ昭和30年(1955年)までは、悠長に東北の山まで登っていられなかったと想像できるので、安達太良登山は昭和30年以降、おそらく日本百名山を当時出版されていた山岳雑誌「山と高原」に連載を始めた昭和34年(1959年)から、この安達太良山の文章を同誌に発表した昭和37年(1962年)までの間であろうと推定される。そのころまでには、「智恵子抄」も国民的詩集として誰もが知りうるところともなっていただろう。

その「山と高原」の「日本百名山」であるが、昭和34年(1959年)3月から昭和38年(1963年)4月まで、各号2座づつ、50回連載されている。「それでちょうど100座か・・・・」

と、雨が降ってヒマなもんだから、第1回の「鳥海山・男体山」からはじまって、第50回の「筑波山・富士山」まで、いちいちチェックしていたら「重大なこと」を二つばかり発見した。

まず、49回目の連載で「岩手山・有明山」とあったが、安曇富士とも称される「有明山(ありあけやま・2248m)」は、いまの新潮社版「日本百名山」には採用されていないこと。

二つめは、同社版「日本百名山」の「霧島山」は、「山と高原」では、「高千穂峰」として選定していることである。二番目の「重大なこと」は、おって検討することにして・・・。(それを知らずオイラはわざわざ最後の百名山として霧島山の韓国岳に登りに行ったのだが・・)

で、一番目にあげた「有明山」はどうして、新潮社版からはずされ、その代わりとなった山はどこなんだ、という疑問が湧いたので、雨が降っていてヒマなもんだから、あらためて深田さんの年譜の「山と高原」誌連載記録を一山一山チェックしたら・・・

「日光白根山」とも称される「奥白根山・2578m」だけが、「山と高原」誌にはなかったのだ。「有明山」の代打選手は、奥白根山だったのだ。

どうしてそうなってしまったんだろうという、次の疑問が湧いた。

これも、雨が降ってヒマなもんだから。さきほどの年譜や山の文学全集を紐解いて調べたら、文学全集5巻目の解説に、アルピニストの近藤信行さんが「深田久弥・人と作品(五)」のところで、深田さんが「有明山」には登っていなかったこと、連載後すぐには登ろうとしていたが道が荒廃していたので登れなかったことが明かされている。

日本百名山には必ず自分で登った山を選定することを深田さんは信条としていたので、やむを得ず「有明山」を見捨てたのだろう。(可哀そうな有明山)

それは納得したが、奥白根が当初は外されていたなんて信じられない。オイラは、昨年を含め2度この山に登頂しているが、申し訳ないが、「奥白根山」は、「皇海山(すかいざん)」や「四阿山(あずまやさん)」よりはまず優先度の高い名山だという気がしてならないのだが。(深田さんふるさとの「荒島岳」は文句を言わないが)

その、可哀そうな「有明山」だが、オイラは、とある9月燕岳(つばくろだけ)をお月見登山した際に、早朝には登山口の中房温泉に下り、気軽な感覚で「裏参道」といわれる登り4時間の有明山めざしたが、あちこち張られたロープ、手を離したらやばそうなクサリのトラバース、やっかいな木の根の張り出しなどでエライ苦労した記憶があり、同じ道の下りも駆け足でということにはならず、1日がかりの重労働を強いられた記憶がある。

田中陽希さんはグレートトラバース3で「表参道」を登っているが、こちらは「裏」の数倍大変な道みたいで、「有明山」おそるべしだ。安曇野から見た風格と信仰の山という歴史的観点から深田さんが登っていれば、まちがいなく選定の栄誉を得たと思うと、不遇な山ではある。(合掌)

        

             よかったね、奥白根山。いつもにぎわっていて。

 


深田日本百名山登頂の思い出  21 安達太良山(あだたらさん・1700米)

安達太良山に最初に登ったのはいつだったか。光太郎さんの「智恵子抄」の「ほんとうの空」が念頭にあったので、昭和50年代初め(1975年ごろ)には、塩沢温泉ルートから登っていると思う。くろがね小屋でもテント泊でも記憶がないから日帰りで登ったのだと思う。

その後90年代に、三脚担いで勢至平ルートからウラジロヨウラクなどの花の写真を撮りに行った記憶。

2000年代に、トレラン練習を兼ねて、東北本線杉田駅から表登山道という長いルートで山頂を目指し、岳温泉に走って下った記憶。

2015年に、安達太良トレイルというイベントに参加し、完走こそできなかったが奥岳~山頂~和尚山~銚子大滝~船明神山~沼尻登山口~胎内岩~笹平~塩沢温泉(ここで制限)と、安達太良の魅力を存分に味わった記憶。

2019年、塩沢温泉ルート経由で初めてくろがね温泉に宿泊し、湯を楽しみ、勢至平のレンゲツツジを撮った記憶。

‥など、走馬灯のように安達太良の記憶が脳内を回転している。

来週には、吾妻小舎のオヤジさんが縦走コースの起点である野地温泉まで浄土平から送ってくれるという。

晴れて、紅葉真っ盛りの安達太良の秋,、2021年の安達太良の記憶をまた脳内チップに埋め込もう。

      

            安達太良山頂の空が、ほんとうの空だ。

      

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