鹿沢・万座パークボランティアだより

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永遠なる小串(2)~古老が語る硫黄鉱山~

2014年09月15日 | 日記
硫黄鉱山は嬬恋の人にとってどういう存在だったのかでしょうか?
様々な角度から見てみましょう。
古老は語っています。
明治四十四年生まれの方が残したものです。
嬬恋から小串に勤務した人はそう多くはありませんが、
通勤の記録があるので紹介します。
干俣集落から小串鉱山に向かって、一緒に歩きながら、
話して居るような極めてリアルな錯覚が、私にはつきまといます。


同じく雪の石津鉱山長屋(社宅)
多分、こんな晴れた日は多くないはずです。月明かりや星あかり、
或いは新月の状態と頭の中で変えれば、雰囲気は出ます。

私の鉱山通の思い出(故人 BO様)
 私共の若い頃は出稼が多かったので、私も鉱山へ八年も行って居りました。
学枝を卒業した次の春十七才で鉱山へ行きました。
其の頃は道も悪く今のような自動車の走るような道は無かった。
鉱山へ行ってから一週間に一日の休みがありましたので、
休みの度に家に下って来るのですが、
人間や牛馬の通る細い道しかなかったのです。
私は、(中間略)三年目の春から製煉夫をする事になりました。
(中簡略)製煉夫になってからは朝の出番が早くなり、
朝四時の交代でしたのでそれ迄に鉱山につくように家を出ました。
家を出て仁田沢より林の中の細道を通り万座川の谷間にかけられたキッ力ケ橋をわたり、
しいんとした万座川の水の音を聞きながら、ねむりねむり六年間も通いました。
時にはあまりねむいからと冬など雪の上に木の枝を折つてしいて腰を下し
十分位うとうとねむる事もありました。
又雪道は人の足あとをひろってあるくのですが、
ねむりねむり歩くので深い雪の中に飛びこんで目のさめる事もありました。
(以下略)「ことぶきのむかしがたり第三集」(昭和56年2月28日
嬬恋村ことぶき学級)

当時のことがよく分かりますね。
書き残してくれて本当にありがとうございます。
こんなことをいくつか交えながら小串展を展開します。
10/11~13鹿沢園地にお越し下さい。
(投稿:ワイルド三太)
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