遊びをせんとや

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親との付き合い方 ~私の場合の介護問題~

2022-09-16 06:04:23 | 日々のあれこれ
もうすぐ64歳である。
私の親、厳密にいうと旦那の親も含めて4人存在したことになる。

旦那のお父さんは71歳の時に肺がんを患い、半年入院して亡くなった。
今から考えるととても早い死だった。当時、私は何回かお見舞いに行ったが、ほとんど病院の付き添いは持病がある義母が請け負ってくれた。義父は旅行や登山が好きでしょっちゅう出かけてはお土産を持ってきてくれる優しい人だった。私たちの子供が生まれてから面倒を見てくれたり留守番に来て洗濯物を畳んでくれたりした。本当にお世話になった。

二年前に義母は90歳で亡くなった。
40代後半から持病があり、それでもカラオケや体操教室に通ったり、趣味の書道を楽しんだりしていたが、やはり80代に入ると入退院を繰り返すようになった。義弟が独身で同居してくれていたのでデイサービスを受けたり、自宅で手押し車で何とか生活していた。
義弟が入院する時は一時的に施設に入所した。

ここまで私はフルで仕事を持っていたのと幸い義弟が同居してくれていたのと、もう一人の義弟が毎土曜日にお昼を持参して一緒に過ごしてややこしい仕事をしてくれた。私と旦那は一月に一度くらいお昼を持って日曜日に会いに出かけてた。
だから全く義母には何もしていない同然。
一度団地が建て替えになり新しいところに引っ越した時に手伝いに行って片付けたくらい。その時は義母に重宝がられた。
それも半日。

亡くなる2日前くらい何となく食欲がなくなり、夜9時30分に義弟から「息してない。」と電話がかかってきて、救急車を呼んだ。
それも土曜日の夜だった。コロナで受け入れてくれる病院が大阪市内になったり、自宅で亡くなると警察の検死など大変な事もあったけれど、狭心症の持病があったのですんなり自宅で亡くなったと診断書も降りた。
コロナ禍で大変だったけれど自分の仕事は少しペースを落とせた。

義母はとても頭のいい人だったので、自分の死後の手順をしっかり紙に書いて残していた。
私たちはサクサクとそれを進めた。
書類手続きは一番下の義弟、残された衣類、物の始末は上の義弟と1年くらいでしっかりしてくれた。
私たち夫婦は一周忌が終わり仏壇を引き受けて月のお詣りをするくらい。

一年後にほぼ同じ時期に自分の父親が亡くなるとは思わなかった。父は少しの高血圧があるが認知症もなくいたって元気だった。
でも急な病で病院で5日入院しただけで亡くなった。92歳だった。コロナで会えなかった。
この時のことは今でも辛すぎてここでは書けない。

残された母は6歳違い。急に父がいなくなったことにショックを受けて2~3日前の短期記憶があやふやになるのと、腰痛がひどいので歩きづらく、耳が遠いのでかなり落ち込んでいたが、死後の色々な手続きを私がだいたいした。
幸い弟が同居していたのと私も時間的に余裕がある時期だったので半年くらいで落ち着いた。
でも2年続きの喪中は心底疲れた。この年の夏に血圧が上がり、潮時だと思って退職しフルタイムから週3日勤務に変更した。

私の場合の親問題は親族に助けられてほぼ何の苦労もしていない。「お母さんは恵まれてるなー。」と娘にも言われる。
本当にそう思う。これから母を色々いたわらなければと思ってはいるけれど、母には母のペースがあるのでそれを尊重しようと思う。
他人が家に入ることは嫌がるのでなかなか外部のサービスも受けにくい。日々のことはなんとか回っているのと私が時間的に余裕ができたのでゆっくり手伝っていこうと思っている。
私が実家に行って色々生活の不備を指摘されるのが母の自尊心を傷つけるようなので「結構きれいにしてるやん。今でOK!」というサインを出しながら精神的負担を掛けないように動こうと思う。母も本当に困った時は電話するからとこの前の水漏れの時も私のスマホに電話してきたので連絡がない時は良しとする。それでも週に2回は電話するようにしている。

先日、和田秀樹さんがテレビで「使える機能は使う。」ということを話されていた。
例としておしっこが我慢できない高齢の指揮者が紙おむつをしながら指揮されているということを挙げてはった。
そうやんなと思う。

ということで万事自分の都合のいいように考えて回りの人に感謝し、今の自分の立場の幸せにご先祖様に感謝し、私は私でわがままに生きて行こうと思う今日この頃である。

和田秀樹さんの本図書館で予約入れました。
もうすぐ敬老の日

ある日のアペロタイムカクテル ラムベース



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