福島泰樹氏の歌集「バリケード 1996年2月」を読みながら思いました。
1960年代・70年代の学生運動では、自分たちの考えを主張する時、「我々は~」と叫んでいたように思います。
しかし、今年、安保法制に反対する学生達の主張は「私は~」と主張していました。
「我々は」と「私は」の違い。
前者は、私は組織の一員であり、私の属する組織はこう考えると主張しているのであり、後者はあくまで、私個人がこう考え
ると主張しているのです。
その違いに、民主主義の成熟を感じます。
民主主義が成熟した社会というのは、社会を構成する一人一人の個人の考えが最大限尊重される社会であり、個人個人が自分の考えをしっかりもっている社会だと思うからです。
1960年代・70年代の学生運動では、自分たちの考えを主張する時、「我々は~」と叫んでいたように思います。
しかし、今年、安保法制に反対する学生達の主張は「私は~」と主張していました。
「我々は」と「私は」の違い。
前者は、私は組織の一員であり、私の属する組織はこう考えると主張しているのであり、後者はあくまで、私個人がこう考え
ると主張しているのです。
その違いに、民主主義の成熟を感じます。
民主主義が成熟した社会というのは、社会を構成する一人一人の個人の考えが最大限尊重される社会であり、個人個人が自分の考えをしっかりもっている社会だと思うからです。
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