算太郎日記

日々の日記を綴ります

一日に映画を二本観る

2024年09月29日 | 日記

映画を二本観た。


一日に続けて二本の映画を観るなど、いつ以来だろうか。若い頃はそういうこともあったような気がするが。それが、いつだったのかはまるで思い出せない。どんな作品だったかもだ。


仕事に追われている時期は、映画一本を観る時間を作るのも容易ではなかった。物理的な時間の確保に困難を要するということ以上に、精神的に映画を楽しむ余裕が無かった。仕事をはじめ、やらなければならないことに追われていた。今振り返ると、本当にその時にやらなければならなかったのかと疑問に思うことも多々あるのだが。時間に追われる日々というのは、そんなふうに立ち止まって考えることを許さないのだ。


今日一日は、二本の映画を観るために使おうと決めていた。そんな時間の使い方ができる今の暮らしが嬉しい。映画は二本とも邦画。そして二本とも、映画に魅了された人々が地方の映画館を舞台に、傷ついた人生と映画館の再生を果たそうとする物語。


観終わった今、ゆっくりと作品と向き合いながら、語るべき言葉を探している。こんな時間も楽しいものだ。


叔母のこと

2024年09月16日 | 日記
 自室の書棚に、一枚のモノクロ写真が木枠の写真立てに収まっている。写真に写っているのは一人の若い女性。華奢な体つきの彼女は、たくさんの本に囲まれた部屋で、腰に手を当て一点を見つめている。いかにも意志の強そうな表情を見せているのは、私の叔母である。

 10年ほど前に80歳で他界した叔母は、若い頃からリュウマチに苦しんだ。叔母の人生は、リュウマチという病との闘いでもあった。そんな叔母を支えたのが短歌である。地方の小さな短歌会に属し活動を続けた。時折、全国紙の新聞歌壇にも入選を果たしていた。不自由な体で、身体を使っては思うように表現できぬことを、31文字の言の葉に託して表現しようとしていた。

 心が弱った時に、写真の中の叔母と視線が合うと、幼き頃の甘酸っぱい思い出と共に「もうひと頑張りしようかな。」と気持を奮い立たせてくれる。そんな叔母の命日が、今年もまたやって来る。 

活弁シネマを観る

2024年08月25日 | 日記

久しぶりに活弁シネマを観に行った。


1920年代のアメリカの無声映画を若手の活弁士が語る上映会。会場は小さなカフェ。活弁士の生の声が会場の隅々まで響き渡る。こんな会場、ちょっと良いなあと思う。


活弁士は若手らしい気負いも見られたが、みるみる映画の世界に誘ってくれた。本番前のトークも熟練の話芸で笑いを取ると言うことはないが、勢いと初々しさがあって心地よかった。映画も最後まで楽しめ、一時間半があっという間だった。


もう少し語りを聞いていたいなあという思いを抱きながら、会場の外に出た。モアッとした熱気を覚悟したが、外は久しぶりに降った雨のせいか、暑さが気にならなかった。


写真

2024年08月06日 | 日記

葬儀の前日の夜だった。母の持ち物を整理していたら、免許証入れが目に留まった。車にはずいぶん以前から乗っていなかったので、最初は免許証と母がうまく結び付かなかった。


しばらく眺めていると、元気な時の母が思い出された。その頃の母は、確かに車を運転してあちこちに出かけていた。近所の人たちと出かけるときには、必ず運転手役をかってでていた。


そんな時もあったなあとぼんやりと思いだしながら免許書入れに触れると、一枚の写真が入れてあるのに気がついた。取り出して古ぼけた白黒の写真を見ると、一気に目頭が熱くなり胸がいっぱいになった。そこに写っていたのは、祖母だった。若くして亡くなった母の母親だ。


縁側にちょこんと座ってやさし笑顔を見せている祖母。母はこの写真をどんな思いで見ていたかと思うと涙が止まらなくなった。翌日葬儀が終わり、火葬場に運ぶ棺の中に花々と一緒に祖母の写真もそっと入れた。


母との別れ(3)

2024年07月28日 | 日記

斎場に着くと、斎場の担当者と通夜・葬儀の打ち合わせを行なった。担当者は慣れた様子で、そつなく話を進めていく。会場の準備も整えられていった。


遺影は、父の時と同じ金婚式の写真を使うと決めていた。少々表情が硬いかなとも思ったが、他の写真を探す余裕もなかった。会場入り口には、母の若い時からの写真がモニターに写っていた。12〜3枚写真を選んで欲しいと担当者から言われたので、慌てて探し出した写真だったが、我ながらいい写真を選んだと思った。


スライドショーで若い時から順番に映し出される母の写真に暫し見入っていた。幼い私を抱き抱えている農作業姿の若い母を見ていると、自然と涙が頬を伝う。担当の方に「打ち合わせをよろしいですか。」と背中から声をかけられ、慌てて指で涙を拭い打ち合わせに戻った。


通夜・葬儀では、長年付き合いがあった近所の方や友人が眠りについた母にすがるようにして、お別れの言葉を言っていただき、悲しみを共有していただいたことにただただ感謝した。


火葬が終わり、骨だけになった母を見て驚いた。思っていたよりずっと小さい。たったこれだけで生きようと頑張っていたのかと思うと切なくて切なくて・・・。渡された箸で今にも壊れてしまいそうな骨をそっと拾った。この光景は、暑い夏が来るたびに毎年思い出すだろうなと思いながら火葬場を後にした。