算太郎日記

日々の日記を綴ります

母との別れ(2)

2024年07月14日 | 日記

施設に着くと、いつもなら穏やかな笑顔を見せながら対応してくれるスタッフが硬い表情で玄関に出てこられた。「どうぞ、こちらへ」と直ぐに部屋へ案内された。


ベッドに横たわる母の顔を覗き込むと、生きる闘いから解放されたような安らかな表情をしていた。顔に触れると、ヒヤリとした冷たさが伝わってくる。死んでしまったことを否が応でも実感させられる。言葉をかけようとするが目頭が熱くなり、言葉が口から上手く出ていかない。一言でも発したら、涙が溢れ嗚咽してしまいそうだったので、無理やり言葉を飲み込んだ。無言で母の顔に何度も触れながら、最後に「ありがとう」と呟くように声をかけるのがやっとだった。


気がつくと固く静まり返った部屋に斎場のスタッフが来られていた。言葉にならない挨拶を交わし、「お願いします。」とひとこと言うと、手際良く母の遺体は斎場の車に乗せられた。斎場に向かう途中に我が家がある。そこは長年母が暮らしてきた家。89年の生涯のほとんどの時間をその家で過ごしてきた。我が家に母を帰したかった。久しぶりの我が家をゆっくり味わってもらって斎場へ行く。そう斎場の方にお願いしていた。


激しく降り出した雨の中を母を乗せた車は我が家へと向かった。家に着くと、雨は一層激しさを増していた。雨の中を車から降りた斎場スタッフから、「大雨警報が発令されたので、急いで斎場まで行った方がいい。家の中に入るのはやめましょう。」と言われた。困惑している私を見て「では、短時間、玄関先でというのはいかがでしょう。」と提案してきた。私はその提案受け入れた。


玄関を開け放ち、ストレッチャーに乗っている母を中に入れた。その途端、なんとも言えない懐かしい我が家の匂に包まれた。母の帰りを家が待っていてくれたようだった。「そうだ、この匂いだった!母と過ごした我が家の匂い!」と切ない感情が込み上げてくる。「帰ってきたよ!家に帰ってきたよ!我が家の匂い分かる!」と母に続けざまに声をかけていた。


わずか5分程の短い時間だったが、我が家で母と最後に過ごしたかけがえのない時間となった。


母との別れ(1)

2024年07月07日 | 日記

職場の駐車場に着いた途端、携帯に着信があった。


画面には母が入所している施設名がくっきりと表示されていた。携帯を持つ手に緊張が走る。できれば電話に出たくないという思いを飲み込んで、携帯を耳にあてる。聞き覚えのある担当の看護師さんの声が耳に入っていくる。


「そろそろのようです。来てもらった方がいいと思います。」と落ち着いた口調で手短に母の状態の説明があった。「分かりました。」と答えると電話を切った。「ついにこの時が来たか。」と思いながら直ぐに弟に連絡をとった。施設から電話があったことを伝え、駆けつけてもらうように頼んだ。


その後、職場で休暇取得の手続きをとっている最中に再度施設から電話が入った。慌てて電話に出ると、「お母様が、今、息を引き取られました。」と、静かな声が聞こえた。途端、力が抜けていくのを感じた。その後、状況説明等があったような気がするが、覚えていない。「分かりました。」とだけ言って電話を切った。


とりあえず自宅に戻り、母に会いにいく準備を始めた。この日のことはこれまでに何度かシュミレーションをしていたはずなのに、やらなければならないことと、母への思いがごっちゃになり、なかなか準備が進まない。様々な荷物を車に積み込み、自宅を出る時は、準備を始めてから一時間ほどが経っていた。


母が眠る施設に向けて車を走らせる。高速に乗ると、雨がポツポツとフロントガラスに落ちてきた。雨で濡れるガラスに母の顔が浮かぶ。いろんな思いが込み上げてきてハンドルを握る手に力が入る。


母への面会(2)

2024年06月29日 | 日記

昨日、母が入所している施設に電話して、母の状態を聞いた。反応も弱く、かなり厳しい状態だと担当者から告げられた。


天気予報は大雨の予報で、用事もあったので、電話する前は面会に行こうかどうしようかと迷っていた。「来られていた方がいいと思います。」の言葉に、私の迷いが見透かされたようで少々狼狽えてしまった。


今日は雨も上がり、蒸し暑さの中に夏の日差しが降り注がれていた。母の状態をあれこれ想像しながら、2時間の道のりを車を走らせた。高速から降りて実家に近づくと、田植えをしたばかりの水田が広がっているのが目に入ってくる。美しい風景だなとしみじみ思う。


幼い頃、田植えの手伝いをした時のことを、冷たい田んぼの感触と共に思い出した。早く終わらせて遊びたくて、いい加減な仕事を父に怒られると、いつも母が庇ってくれた。私が父への反抗心を募らせると、今度は父のフォローをするのが常だった。

一緒になって父のことを悪く言わない母が不満でもあり、ほっとした気持ちにもなったものだった。


施設に着いて、部屋に案内されると、一週間前に来た時と同じ姿勢でベッドに横になっていた。顔を覗き込むと明らかに前回会った時より痩せていた。もうこれ以上痩せられないという感じだ。体に触れると壊れてしまいそうだった。痩せ細った手にそっと手を重ねる。耳元で私の名前を言って声をかける。


「もう反応がありません。」と言われたのだが、23回やっていると、返事らしき反応があった。その声は細く苦しそうで、最後の力を振り絞っているようだった。私が来たことを喜んでいると思いたい私は、さらに声をかけようとした。しかし、青白い顔で必死になって呼吸をしている母の姿を見ると、鼻の奥がつんとなって声をかけられなくなってしまった。


「おそらく、生きている母を見るのはこれが最後だろうな。」と思いながら、細くて弱々しい呼吸を規則的に繰り返す母を見つめていた。


母との面会

2024年06月19日 | 日記

担当医と面談をする前に、入所している施設に母に会いに行った。担当の職員に案内されて部屋に入ると、母は酸素マスクをつけてベッドに横たわっていた。目を閉じて小さくなった体で必死に酸素を吸っているように見えた。


声をかけると、閉じていた目がうっすらと開いた。母の目が私を捉えたと思った瞬間に、名前を言って「分かる?」と聞いてみる。微かに「はい」と聞こえた。嬉しくなった私は立て続けに言葉を発した。しかしそれに対する返事はなく、ただじっと私を見つめていた。私のことを息子と認識しているかどうか分からないが、ただ見つめられているだけで十分嬉しかった。手を取ってみる。細くて冷たかった。元気だった頃のふくよかな面影は全くない。


担当医からは二ヶ月は持たないと宣告された。それは、母の状態を見た後では納得するしかなかった。必死で肩で息をしている母に「頑張って」とはとても言えないと思ったが、何と言ってやったらいいのか言葉が見つからず、「頑張って、また来るね。」とありきたりの言葉で面会を終わりにした。


施設からの電話

2024年06月08日 | 日記

母が入所している施設から電話があった。近々、担当医と会って欲しいとのことだった。


どうも母の状態が良くないらしい。数日前に発熱の連絡を受けていたので、やっぱりかと落胆した。食事を受け付けなくなっていると聞き、まずいなあと思いながら、看護師の次の言葉を待った。


医者の都合の良い日程を3択で提示された。こちらが面会に行こうかと考えていた日程を告げると、それまでと違った強い口調で、「先生の都合に合わせてもらわないと困る。」と言う。少々ムッとした。仕事をしていること・遠方に住んでいることを、「伝えていましたよね。」という思いを込めて改めて伝えた。


すると、先ほどと同じような調子で同じ内容が返ってきた。担当医が忙しいのは分かるが、もう少しこちらの状況も配慮した言葉が欲しいと言いたいのを飲み込んで、何とか仕事のやりくりができそうな日を告げた。


小さくなってしまった母の姿を思い浮かべながら、もう少し頑張って欲しいと願わずにはいられない。