叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十五

2008年07月06日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

ケイタくん、

「ジッチャン、ロスが見たケイト夫人は幽霊だったのですか。」

ジッチャン、

「ジッチャンにもよく分からないんだ。
ロス博士の自伝的な書物「人生は廻る輪のごとし」の中にある場面を
イメージし、ロスが感じたとおりに書いたのだが、幽霊としか言いようがない
ね。

 ロスがウソを言う必要もないし、助手のロバートも伝言を書いたメモを
確認し、ケイト夫人の字に違いないことを確かめているから、ロスが白日夢
を見たともいえないんだ。

そこで、ここでは認識するということが大事になってくるんだ。

「本当に起きた事であっても、人間がそれを認識しなければ、無かったのと
 同じだ。」
という見解があるんだ。


 たしかに、私たちには、いま地球の裏側で起きていることを認識すること
はできない。テレビや通信手段が発達して、現代人はそこに行かなくても、
起きている事を認識できると思っているが、ただ映像を見ているだけなんだ。
事が起きた場所、時間、影響を受けている人の感情まで、認識することは
できないのだ。

 この場合、
ケイト夫人と会ったのはロスだけだから、ロスはそれを認識したワケだ。
私たちかロスが認識した情報を生かして、なんらかの価値をつくるとすれ
ば、ロスを信じるしか方法はないんだよ。

 そんなバカなことがあるか。
と否定すれば、ロスの経験は無かったことと同じなのだ。
 ちょつと話が難しくなったようだな。

 仏教も釈迦が悟った生命の真理を、私たちが直ちに理解することはでき
ないが、釈迦を信じて仏教を実践していく内に、
 釈迦が悟ったと同じことを認識できるようになるのだ。

 それには先ず釈迦の言葉(法華経)を信じることから始まるのだ。
信じなければ自分で認識することはできないから、真理があったとしても
無いのと同じことなんだ。

「 私たちが生まれてきたのは、私たちは何者だ!生命とは何か!」
を悟るために生まれてきたのだ。
 と仏教は教えているのだよ。仏教の話になったが次回は朗読に戻ること
にしょう。

つづく   

 

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 十五

2008年07月04日 | 新・仏教教室
ケイタくん、

「ジッチャン、仏教(法華経)はスゴく役に立つことを教えているのに、
どうして今まで広まらなかったのですか。」

ジッチャン、

「ケイタくんが疑問に思うのもムリはないね。
仏教の中でも法華経は、人間の生き方を教えた最高の哲学であると、
認める人はおおぜいいるが、なぜそれが広まらなかったのか、これが一番
 問題であり、大事なことでもあるんだ。」

 一般に言って宗教は、
神とか超越者を唯一絶対の支配者と想定し、それが人間の運命を決め、
人間はそれに服従し、絶対に逆らってはいけない。というように教えられて
きたのだ。

 よくキリスト教などの一神教を信じる人が、
「すべては神の意思だ」 と言って従おうとするが、これは唯一絶対の権威
者を崇拝する教えに共通することだと言えるだろう。

 一方、仏教はどうかというと、
生命の真理を悟った仏(釈迦)と同じ生命が、各人の生命にあるので、
これを現すことが出来れば、仏と同じ智慧と力が得られるという教えなの
だ。
 ところがそれを聞いても、
自分みたいな学問もなく、力もないものに、仏と同じ力があるワケがないと、
始から思い込んで信じようとしないのだ。

 そして仏教というのは理解しにくく、難しい教えだと思い、心を開こうとし
ないから広まらないのだよ。」

山本さん、

「先生、私なんかも仏教の家に生まれましたが、仏教がどんなことを教え
ているのかぜんぜん知りませんでした。
 ただお盆とか、ひとが亡くなったときに僧侶が来て、
お経をあげるのが仏教だと思っていました。

 いつか父親にお経の意味を訊いたことがありましたが、
「そんなものは分からなくてもよいのだ」 修行をつんだエライお坊さんが
先祖供養のために、ありがたいお経をあげてくれているのだから、

 信徒は黙って手を合わせているだけでよいのだ。                                
と言われました。父親もお経に何が書いてあるのか、知らなかったのだと
思いますが・・」

つづく   


 

人間賛歌 「新・仏教教室」 十四

2008年07月01日 | 新・仏教教室

 前回の続き、

 仏教でいう慈悲は、ただ相手を思いやるやさしい心だけではないんだ。

苦しんでいる相手の気持ちに同苦して、どうすれば苦しむ原因をなくして
あげられるかという、智慧を持っているのだ。
 だから時には叱ったり、厳しい仕打ちをすることもあるんだね。
これを抜苦与樂(バツクヨラク・ 苦しむ原因をなくする )というのだよ。


 抜苦といってもイメージがしにくかったら、試練というようにイメージした
ほうがピンとくるかもね。
アメとムチと言うとたとえがよくないが、甘いだけではダメなんだよ。

 ムチもないと鍛えられないんだ。
苦しむ原因をなくすには、苦しみに負けない強い心をつくる必要があるんだ。
そのために試練を与えるのだ、と言ったほうが分かりやすいと思うね。
そのうえで、楽しみを与える( 与樂 )のが仏教でいう慈悲なんだよ。

与樂というのもイメージしにくかったら、
恵み、または恩恵というようにイメージすると分かりやすいだろう。天の恵み
とか、大自然の恩恵と言ってよく使う言葉だからね。


 大自然の恩恵には、一粒万倍の法則というのがあるんだ。
一粒のタネをまくと万倍もの実になって返ってくるという意味だ。たとえば、

一粒の米のタネから三千以上の実がなるといわれるが、
その三千のタネからそれぞれ三千の実がなると、九百万個になるからね。
これを繰り返していくと、無量無辺で数えることが出来ないぐらいの数にな
るんだ。

 ちょつとした善い行い( 利他の行為 )でも、量り知れない恵みとして与えら
れる、とうことの例なんだよ。

ただし恩恵は、
 「あとでお礼をしますから先に恩恵をください。」
といっても絶対ダメなんだ。
 「実がなったら土を耕してタネをまきます。」
というような横着な考えではダメで、先に汗をかいて土を耕すという行為が
必要になるワケだね。

 抜苦(試練)と与楽(恩恵)を合わせたのを慈悲というのだ。
日蓮大聖人が御図顕された御本尊の別名を功徳ジュ(功徳のあつまり)と
いうが、大宇宙の慈悲がぜんぶ集まっているのが御本尊の力なのだ。

これを使うには信じる力(信力)と、仏法を実践する力(行力)が必要になるの
だ。

つづく