『PSYCHO-PASS GENESIS 3』 吉上亮 (ハヤカワ文庫 JA)
『PSYCHO-PASS GENESIS 4』 吉上亮 (ハヤカワ文庫 JA)
『PSYCHO-PASS GENESIS』は、1、2が征陸智己篇とするならば、3、4は禾生壌宗篇とでも言うべきか。禾生壌宗のモノローグで始まり、主人公が免罪体質を疑われるのであれば、もう結末は決まっているようなもの。ハッピーエンドで終わることの無い運命。
〈シビュラシステム〉の黎明期。初期型の〈ドミネーター〉。そして、〈ノナタワー落成式襲撃事件〉の真相。前日譚という性格上、予定調和に終わることは仕方がない。それでも、アニメ本篇のキーワードを丹念に拾って世界を構築するというのはなかなかできることではない。そこは尊敬に値する。
ふたりの主人公、滄と茉莉の百合めいた関係も、その壮絶なる人生も、PSYCHO-PASSという舞台の上で踊るには充分に美しく、哀しく。そして、ふたりの物語が迎えた結末が、アニメ本篇のセリフに重層的な意味を持たせることになるとは。アニメのスピンオフ・ノベルとしてはとてもよくできた作品だった。
一方で、いろいろモヤモヤした部分は残る。
何と言っても、共感できる登場人物が一人もいないという異常さ。滄と茉莉はもちろん、唐之杜兄弟にしろ、野芽も、泉宮司も、もちろんアブラム・ベッカムにも、まったく共感できない。完全なる傍観者として、常軌を逸脱した登場人物たちの行動を見届けたという読後感。彼らと比較すると、アニメの槙島の方がまだ理解できたような気がする。
そして、あとがきにおける著者の結論「無数の人の営みによって構成される社会それ自体に、善も悪も無い」。それは命題として正しいとしても、ここに描き出された物語は、そんな風に片付けられるべきものだっただろうか。
おそらく、アブラム・ベッカムは正しい。社会のために個人が犠牲となるシステムはおかしい。しかし、それを打倒するために個人が犠牲となるのはもっとおかしい。
瑛俊のように、社会を守るために自ら犠牲になるのは確かに美しい。しかし、社会を成立させるためのシステムが個人の犠牲を必然とすることは、また話が違う。
登場人物の主張はどれも、一見正しいようで、ちぐはぐだ。まるで、本心を隠して建前を述べているような。あるいは、自分自身を屁理屈で騙しているような。
日本という楽園を守るためにすべての不条理を押し付けられた国外の様相も極端すぎて現実味が無いし、〈シビュラ〉の出自にしたって何かが解明されたわけでもないし、突っ込みどころを探せばイライラとモヤモヤがつのるだけだ。
この方向でPSYCHO-PASSの物語を完成させるには、〈シビュラ〉の本当の原点までさかのぼった、さらなる前日譚が必要なんじゃないかな。極度の混乱の中で、日本という国を救うために、未来を〈シビュラ〉に賭けた想い。そんな話を読んでみたい。