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東京「昭和な」百物語<その4> ガード下の靴みがき

2015-02-16 01:20:40 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの母は、すでに亡くなっている。今から5年前に93歳という高齢で亡くなった。
大正5年生まれで、とてもハイカラな女性だったように思う。

昭和11年に起きた2.26事件の時は勧銀にタイプライターとして務めていて、事件の真っただ中にいた。雪の中を、当時住んでいた中野まで歩いて帰ったという話を聞いたことがある。

やがて、戦争が始まると勧銀でボルネオ勤務のタイプライター募集があり、即座に応募し昭和18年頃にはボルネオにいたという。そこで詳細は知らないが、軍属と恋に落ち、昭和20年の終戦前に帰国(といってもすんなりと帰国できたわけもなく、彼女の乗る船以外はすべて撃沈され、九死に一生を得て帰国している)、軍属との間にできた私生児である娘(ボクの姉である)を産んでいる。

戦後、父と結婚し松江に住み、ボクを産む。

彼女は、ボクを連れて映画や芝居、歌の舞台などに足しげく通った。そうした思い出の中で、最も鮮明に覚えているのが、なに劇場かは覚えていないが、銀座にあった劇場で観た宮城まり子さんの「ガード下の靴みがき」のステージだ。記憶の中ではNHKの公開放送かなにかのステージだったような気がする。おそらく昭和30年頃のことだ。

今で言うオーバーオールにハンチングを被った宮城まり子さんが、夕焼けに染まるガードの書き割りの前で歌う姿を、昨日のことのように思いだす。

そしてその宮城まり子さんの姿と、なぜか「道」というイタリア映画(ずっと後にフェデリコ・フェリーニの作品だと知るのだが)のヒロイン=ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナと被って記憶の中に残っているのだ。

ひょっとすると、「道」の主題歌の「オー・ジェルソミーナ」(ひょっとしたら違う題名だったかもしれない)を、宮城まり子さんが歌っていたのかもしれない。

そして、この記憶はボクの中で、最良の、そして最高の記憶として今もある。「道」も母が連れて行ってくれたのだと思う。よもやボクが一人で観に行ったわけもないし……。

「ガード下の靴みがき」を、もう一度聴きたい、「道」を観たい、「オー・ジェルソミーナ」を聴きたいと、心の底から思う。鮮明に残っているボクの記憶の中のすべてを、もう一度トレースしたくてたまらない。

あの当時はまだ傷痍軍人の姿があちこちで見られた。上野の地下道には溢れていたし、新宿の東口と西口をつなぐ地下道にも大勢いた。澁谷にも池袋にももちろんいた。当時の傷痍軍人さんは、本当の帰還兵だった。

やがて、宮城まり子さんは肢体不自由児療護施設ねむの木学園を設立し、芸能活動から身を引くのだが、なにか傷痍軍人の記憶とねむの木学園創立の記憶もまた、ボクの中では重なっている。なにか、不思議な感覚として残っている。

こんな記憶も、実は母が残してくれたものだと、最近改めて感謝している。なにがどうということもない記憶なのだが、昭和中期の記憶としてボクの中でこれから先も残り続けるのだろう。
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