普通な生活 普通な人々

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法華経の宇宙観

2014-11-18 17:28:22 | ちょっと宗教<的>な
二十八の章(品)からなる法華経は、壮大な世界観・宇宙観の上に成り立っている。

最も劇的なのは、二処三会と言われる法華経の会座(釈尊の説法の場)の展開だろう。

序品第一から法師品第十まで、釈尊は霊鷲山で説法する。そして見宝塔品第十一から嘱累品第二十二では、大地から巨大な宝塔が涌出して、会座に立ち会っていたすべての釈尊の弟子と共に、大気圏をも突き抜けるかのような空中に転じた虚空会での説法となる。そして、薬王菩薩本事品第二十三から終章の普賢菩薩勧発品第二十八まで、再び霊鷲山での説法となる。

霊鷲山と虚空という二か所で、合わせて三度の説法を行ったという意味で、二処三会と言われる。

それぞれの説法の意味を、初めの霊鷲山での説法が「現在」を、虚空会での説法が「死後」を、二度目の霊鷲山での説法は「未来」を意味するものともいわれる。

そうした時系列に意味を見出すのも良いのだが、釈尊がわざわざ二処三会で説いた本質は何かという問いが最も大事なことなのだろう。

その一つは、明らかに予言の書であるということ。

予言と言っても、ノストラダムスやマヤの予言などの類ではない。

人間の生命を根本とする予言。どういうことかといえば、人が「成仏」するか否かという予言。そしてすべての生命あるものの成仏を予言して、法華経の説法は終わるのだ。

虚空会の説法で大地から涌き上がった宝塔は、かつては「2001年宇宙の旅」に描かれた「モノリス」に比定されたりもしたが、そのレベルのものではなく、その宝塔は多宝仏という釈尊とは異なる仏がコントロールする、宇宙の巨大さにも匹敵するような、宝塔だった。

<続く>

なぜか、こんなことを書いておかないといけないような気になっています。

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