ボクの父・加藤千代三は、日露戦争の翌年、島根県に生まれた。
千代三と言う名は、その時代相を良く表している。
尋常小学校しか出ていない千代三は、奉公に出された置屋のような旅館で、酌婦に囲まれながら、父の利発さを知った旅館の旦那に与えられた万葉集を読みちぎり、学んだ。
そして地域では知らぬ者のない天才少年歌人と言われるほどになった。
明治が終わり、世の中は大正となり、やがて「潮音」の太田水穂に出会い上京を促され、島崎藤村の知己を得、岩波文庫、新潮文庫の創刊に携わった。
戦前には第二回直木賞の候補作を上梓するなど作家を志したようだが、戦時中は大政翼賛会に籍を置いた。
戦後は故郷の島根新聞社で編集局長となったが、マッカーシズムによる赤狩りにより退社を余儀なくされ、再び東京に戻り新生活運動の専務理事として、社会活動に専念した。
やがて20世紀の終わりに93歳の生涯を終えるのだが、その間一貫して続けていたのは、天才少年歌人と言われた、歌人としての矜持だ。
千代三の残した短歌の数々は、彼の書籍にいくたりかがみえるだけで、ほとんどがちりじりになっている。
最近、千代三の残した資料の中に、自分で思い出せる短歌を書き残したものを見つけた。
これから、それらを一つずつこのブログにアップし、後代に残しつつ皆さんに紹介させて頂こうと思う。
まず今日は、おそらく15歳頃に詠んだものを。添え書きには「岡垣義忠氏結婚の日に」とある。
かえで葉の そよげる家に 師の君の
妹背のちぎり し給うぞよき
千代三と言う名は、その時代相を良く表している。
尋常小学校しか出ていない千代三は、奉公に出された置屋のような旅館で、酌婦に囲まれながら、父の利発さを知った旅館の旦那に与えられた万葉集を読みちぎり、学んだ。
そして地域では知らぬ者のない天才少年歌人と言われるほどになった。
明治が終わり、世の中は大正となり、やがて「潮音」の太田水穂に出会い上京を促され、島崎藤村の知己を得、岩波文庫、新潮文庫の創刊に携わった。
戦前には第二回直木賞の候補作を上梓するなど作家を志したようだが、戦時中は大政翼賛会に籍を置いた。
戦後は故郷の島根新聞社で編集局長となったが、マッカーシズムによる赤狩りにより退社を余儀なくされ、再び東京に戻り新生活運動の専務理事として、社会活動に専念した。
やがて20世紀の終わりに93歳の生涯を終えるのだが、その間一貫して続けていたのは、天才少年歌人と言われた、歌人としての矜持だ。
千代三の残した短歌の数々は、彼の書籍にいくたりかがみえるだけで、ほとんどがちりじりになっている。
最近、千代三の残した資料の中に、自分で思い出せる短歌を書き残したものを見つけた。
これから、それらを一つずつこのブログにアップし、後代に残しつつ皆さんに紹介させて頂こうと思う。
まず今日は、おそらく15歳頃に詠んだものを。添え書きには「岡垣義忠氏結婚の日に」とある。
かえで葉の そよげる家に 師の君の
妹背のちぎり し給うぞよき
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