昨夜 テレビで勝新太郎の特集が流れていた。
ナビゲーターはオダギリジョーだ。
勝新太郎をリアルで見ていた世代。
代表作は「座頭市」最近の人には香取慎吾の方が分かるだろうか。
激動の昭和を生きた人の多くは破天荒な人生を送っている。
今のように娯楽の意味が広範囲になり多様化していない時代。
映画とテレビは人びとの夢と希望とロマンが溢れていた。
視聴率だのスポンサーだの気を使わず、
役者として芸人として色んな意味で自分を見せることを
我武者らに追いかけていたような気がする。
売れれば収入が上がる。もちろんそうだが、
それだけじゃない生き様も売りにしていたところが多かった。
確かに破天荒な生き方をする者は少なくなかったし、
芸の肥やしと称してやりたい放題の感は否めない。
それで身を滅ぼした人は今も昔も変わらないが、
何だか昔の方が何事にも色があった。
自分が昭和生まれだからかもしれないが、
見る側も見られる側も均一的なものではなく、
枠にとらわれないエネルギーが感じられたものだ。
今は原因究明と同時に真実の隠蔽が
同じ割合で映し出され、見る者に夢も希望も抱かせない
そんな映像が目白押しだ。
勝新太郎の生き方もまた破天荒と言えよう。
勝新太郎が「かつしんたろう」であり続けるための
間違った努力もそのまま押し通すエネルギーがあり、
時には多くの人の生き方に深く陰を落とした人でもある。
ある意味周りで支えるてがあればこそであるが、
そんな勝新太郎を見放さずに居た人の力の方が
むしろ凄いのかもしれないが、
そうさせる何かオーラが勝新太郎にはあったのだろう。
勝新太郎の生き方を肯定も否定もすることはないが、
テレビを見ていてふと「市川海老蔵」を思い浮かべた。
目が似ている。
獲物を追いかける獣の目の奥で、
安らぎを求める子猫のような瞳が写る。
自身の箍の外れた振る舞いに戸惑い、
「市川海老蔵」を造り上げ維持する姿勢は、
どこか勝新太郎と重なって見える。
一個人を生き抜くことはとてもしんどいことだ。
しかも芸人のように二つの名前を持つ人間は、
どこかで本当の自分を見失う時がくる。
造り上げられた映像の中の自分と
造り上げなければと もがく自分の狭間で、
本当の自分がわからなくなることは当然かもしれない。
最後まで勝新太郎は勝新太郎だったという。
家族にとって良かったのかどうかは分からないが、
勝新太郎としてこの世を去れたことを
誇りに思っているに違いない。
どんな人生でも、
何を演じても、
どんな生き様でも、
仕合わせと感じる瞬間を生きることが
大事なのではとおもう。
勝新太郎。この世を離れて17年。
今頃 素の自分を取り戻しているだろうか・・・