kasaruの今日も有り難う

僧侶歴46年。講演依頼受付中
サルコイドーシス・バセドウ病の旦那
岡山へ就職長男23歳
アペール症候群次男19歳

相続人。。

2006-03-31 | Weblog

「われわれ人間は、自分の個人的な生命を持っているとはいえ、

大部分は依然として、その年齢が数世紀単位で数えられるような

『集合的な魂』の相続人であり、犠牲者であり、

なおかつ推進者である」  

                   by ユング



スイスの精神病理学者カール・グスタフ・ユングは、

フロイトと共に「深層心理学」という、

新しい学問体系を樹立した人です。

「魂の輪廻転生」を説き、

長きにわたり 迫害をうけた人でもありました。

この命は突然変異で生まれたのではなく、

多くの、そして永きに亘って繰り返される

生まれ変わりによって 現存しているということは

間違いないとおもえます。

「地球は次世代からの借り物であり 先人からの

伝えるべきもの」と、たくさんの声が聞こえてきますが、

では 実際どのくらいの人たちが、

借りたものを大事に使い、手入れして返そうと

努めているでしょうか?

何でも安易に使い捨ての時代。

命すらゲームや自己感情の元で リセットできると

勘違いしている人の犠牲になるには、

あまりにも惨めな人生。

表面的な「エコロジー」や「スローライフ」「ロハス」

などと 繕ってみても 根本的改善にはならない気がします。

資源を守り、節約の技を伝授するのと同時に、

命の重み、生きる意義を いろんな角度から、

それこそ 小さいうちからこころに 刻んで欲しいとおもいます。

その場限りの快楽は、儚いもの。。。

何世紀にも亘って 培われた魂を 無駄にすることなく

「有り難う」という気持ち、「お陰さまで・・」の心を

お互いの生活の中に・・・・育てていただきたいとおもいます。

「他人くたばれ 我 繁盛」の精神は、 自己破壊、強いては

社会崩壊を招くということを、肝に銘じて。。。


写真は 大子〈月待の滝〉に点在する 七福神像。

かおる 撮影。

我慢と忍耐

2006-03-30 | Weblog

我 慢

「そんな 怪我くらい 我慢しなさい」

「そのくらいのことなら 我慢できます」など・・

いっけん 懸命にこらえることで

格好良く聞こえます。

一般的には 我慢とは

感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。

辛抱すること。

とあります。

しかし、

我慢は、仏教語で七慢のひとつで、

サンスクリット語「mana(マーナ)」の漢訳。

仏教で「慢」は、思い上がりの心をいい、

その心理状態を七つに分けたものが「七慢」です。

その中の「我慢」は、

自分に執着することから起こる慢心を意味し、

「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であって

そこから意味が転じ、我慢は「我を張る」

「強情」などの意味で使われるようになりました。

さらに、強情な態度は人に弱みを見せまいと

耐え忍ぶ姿に見えるため、近世後期頃から、

現在使われている我慢の意味となったのです。


我・・・とは

「私が」の《が》 

「自分が」の《が》というように

自分に執着すること。

慢・・・とは

慢心。いい気になって おごり高ぶること。

我慢と忍耐は違います。


自分自身の欲望に執着し 常に《が》を通すことは

本来は 良い意味の言葉ではないんです。

絶える 時期を待つという意味は 本当は

【忍 耐】というべきでしょう。

忍耐ということばのなかには、けっして

自己を抑制し 鬱憤を貯めるということではなく

これも 自分に化せられた 修行と心得

何事も自分の為にさせていただくこと・・・

と、おもうこころを

持っていただきたいと思います。

なかなか すっきりと耐え忍ぶことは

難しく・・・自己犠牲と考えがちですが、

例え 100の忍耐のうち

ひとつでも 自分の為と思えれば

しめたもんですね


今晩の献立

2006-03-29 | Weblog
* ふくふく納豆+さとるの卵焼き入り

*福島キャベツ+ほうれん草+かにかま+クルトンのセロリドレッシングがけ

*おきゅうとう 酢味噌かけ

*卯の花

*さしみ湯葉

*レンコンの挟み揚げ(差し入れ)

って もしかして 料理に手をかけてない?

でも 千キャベツを切る前は 

ちゃんと包丁を研ぐところから・・・


眩しい!

2006-03-29 | Weblog
太平洋と那珂川から筑波山をのぞむ。

昔 水戸光圀から三百米を拝領したころ 境内地は約六万坪あった。
その時、絶景の場所を定めた「水戸八景」というのがある。
そのひとつが 我が寺顔入寺の側に。
眼下に那珂川と太平洋を、そして遠く筑波山に夕日が入る景色を愛した場所が、「岩船の夕照」の碑とともに今でも残っている。

時代の流れで 今は約一万坪の境内地、八景は町の管理下におかれているが、沈む夕日の美しさは 黄門様の時代となんら変わりなく、見る者を魅了している。

次の予定!

2006-03-29 | Weblog
再び・・・

実は11/30のブログに登場の 御年90歳のおじさま。

卒寿記念に 息子のAちゃんが温泉旅行を企画。

4月入ってすぐ 甲州西山温泉

カウントダウン・スケジュールを

で送ってくれるAちゃん。

談合坂で待ち合わせから始まって

時間を追って細かに書かれている予定・・・

寸部の隙間も無いほど 完璧なスケージュール。

今から とっても楽しみです。

妹家族は次男坊 “慧心”の保育園の入園式のため
泣く泣く リタイヤ

我が家からは 部活ありのかおると留守番のまっちゃんを
抜かした元気組が参加。

卒寿のお祝い みさちゃんもしんちゃんも

きっと 喜んでいるね

変わりに ターンと堪能してくるからね

おじさん 主役だから体調整えていてね

(*_*)

2006-03-28 | Weblog

大名ソースかつ丼!!!

これで なんと 945円

かおるは嬉しさのあまり 
心臓が止まるかとおもったそうです。

無事 帰宅。

歴史を語る旅に・・・国宝 文化財のさざえ堂

白虎隊のお墓へ。

以前は賑わっていた街道も変わり、

時代の波に押され、訪れる人の数もめっきり

長い階段に難儀する人たちのために 有料で

動く歩道が出来ていたり 昔の面影を失った

多くのお土産屋さん・・・ちょっぴり寂しかったりして。

でも まっちゃんは こどもたちに

歴史の1ページを伝えることができ ご満悦

そういえば 10代の少年6人が お墓 一人一人に

お線香を手向けていたっけ・・・

「蝶の舞う 白虎の墓に 手を合わせ
 
   母のこころは 無念に思う」

本日は晴天なり。

2006-03-27 | Weblog

法事終了

住職は昨日から松戸へ御葬儀・・・お伴(息子)とで移動。


番組「田舎に泊まろう!」

芸能人が行き当たりばったりで、素人さんのお宅に

泊めてもらう 交渉と人間味あふれる番組。。。

御存じですか?(テレビ東京なので・・


昨日は萩本欽一・欽ちゃんが新潟県 津南町に・・・

脱サラをして「ナメコ」栽培を営んでいる一家に

交渉成立

92歳のおばあちゃんと高校生の息子さんのいる

4人家族の御家庭に欽ちゃんが一泊。

その時に おばあちゃんと欽ちゃんの会話


欽>ご主人は?

ば>子供が2歳と4歳の時 31歳で病気で
 
  亡くなりました。

欽>それじゃ~ おばあちゃん苦労したね~

ば>いいや 苦労はしてね~

  苦労はしてないが 難儀した。

欽>難儀した?? あ! 苦労じゃなくて

  難儀したんだ・・・そうか・・・


そう!!なんです。

このおばあちゃんの生き方こそ 私たちが

見習わなければならない心意気なんです。

いつも記しておりますが、苦労とは、

周りの人間が言うことではなく、

自分自身が決めること、同じ事柄をしても

人それぞれに思うことは違います。

同じことをしても 苦労と感じながら

するひとと、感じない人といます。

同じように皆が苦労と感じながら

生活してるとは限りません。

やたらに 言わない方がすっきりします。


よく耳にする「御苦労様」

本来は

『物事がうまくいくように、

精神的・肉体的に励むこと。』の意。

一聞 労をねぎらっているように聞こえ、

美しい響きのように勘違いしていますが、

先人が後人に対し 慰め、感謝する言葉。
本来 目上の人には使わない言葉なのです。




苦労・・・義務感や強制感が伴うと必然的に

苦労をしている、させられているという

辛い事柄のようになってしまいますが、

基本は自分の心の持ちようで

苦労は 良い意味で違うかたちに変わると

思うのです。

「苦労ではなく、難儀した。」

なんて 合点のいくことばなんでしょう。


90歳から始めたという布袋様の絵は、

私たちに 迷わず自分の道を歩め!と

語りかけているようでした。

まだまだ 負けちゃいられません

犠牲・・・

2006-03-26 | Weblog

犠牲>目的のために身命をなげうって尽くすこと。

ある物事の達成のために、かけがえのないものを捧げること。



犠牲とは 強制でも、恩を着せることでも、

自分の意思を封じ込めることでもありません。

「何かをしたい!」「なんとかしたい!」という思いが

自分の体と心を動かすものなのだと・・・

「○○○をしてやった!!」

「こんなに犠牲にしているのに・・」などと

犠牲にしていることを 自分に、自分以外のものに

言いつけることは 

本当の意味での『犠牲』をはらっていることには

ならないと思います。

こどもの習い事のために奔走したり、

会社や家族・地域のためと

時間を作って関わるおとなや親、

自分のことより こどもの為、周りのためとおもいながら

行動するならしないほうがいいとおもうのです。

「○○の為」とは 何となく良さそうに聞こえすが、

実は 進む道の中に自己制圧と支配欲が生まれ 

その思いの分の見返りを求めはじめ、満足いかない成果に

焦り、落ち込み、憤慨、イライラを感じはじめます。

自分のせいにして 

自分に当たっているうちは まだ 良いですが、

自分以外のもののせいにして 

周りの人間に当たり散らすという行為は、

全ての人のこころを 沈ませ 

悲しい結果しか生み出さないことを

わかって欲しいとおもいます。

犠牲>とはマイナス的な発想ではなく、

「させていただく」「できる喜び」を芯にもち、

無理せず、出来ることを精一杯する・・

そして 何ごとも 楽しむ!!ということが大前提

何かをすることで こころが少しでも満たされるなら、

そこには 真の犠牲があるとおもいます。

こころの荒げる、満たされない犠牲は、

犠牲とはいいません。

先ずは 自分がその状況を把握し、考えることから

初めて見ませんか??

見返りを求める犠牲は 何も生み出しません。

お互いが 大変なことがあっても 爽やかな風に包まれ、

気持ちのいい汗にまみれることを願っています。