kasaruの今日も有り難う

僧侶歴46年。講演依頼受付中
サルコイドーシス・バセドウ病の旦那
岡山へ就職長男23歳
アペール症候群次男19歳

自然の脅威。驚異。

2014-09-30 | 考える事


色づく木々、季節が幻想的な世界を作り出し、

ヒトは吸い込まれるように魅了され、

大自然へと踏み込みます。


毎年 夏休みが終わると聞かれる水辺の事故死。

毎回耳にしていても「自分事」ではないと感情に任せます。

海水浴中の事故だけではありませんね。

何処にいても、何をしていても災難はつきものです。

寝ていたその時に土砂に押し流される、

落ち度も何もないのに車にはねられる・・・

生きとし生けるものは常に「死」を連れて歩んでいます。

そのことをみんな知っています。

「何で!!」と思いながらも知っています。

でも、忘れているのです。


毎日、毎日この瞬間も「死ぬかもしれない」

そうおもって生きていたら心労で倒れるかもしれません。

何処にもいけず、何もできず、戦戦恐恐とした時間を

ただやり過ごすだけの日々になてしまいます。

「それでも自分の人生だ!」確かにそうですが、

「井の中の蛙大海を知らず」です。

きっと誰もそんなことは望んでいません。


知らない世界を知る感動は何ものにも代え難く、

だから皆周りでどんな事故や事件があっても、

又その悲しみを乗り越えて魅せられた世界へ行くのかもしれません。



「まさか!」の坂は私たちに色んな試練を与えます。

今回の御嶽山での出来事はまさにその「まさか」を

目の当りにし、実感する事故であります。

まさか、自然の驚異に魅せられた人たちが、

自然の脅威を思い知る事になるとはきっと思わなかったでしょう。

御嶽山へは数年前に講演に行った場所。

身近な事故のように感じられ心が痛みます。



未だ安否のわからない人たちを思い、

眠れぬ夜を過ごしているのは何も家族だけではありません。


初めまして。の多くの関係者が、

「一刻も早く救助をしたい」そう願って山を目指し、

ニュースを見た人たちが「一秒でも早く家族の元へ」そう祈っています。



既に還らぬ人となった方々へ合掌させていただき、

まだ身の置き所を探している方々の一刻も早い

解決がなされる事を遠地より祈っております。


自然の驚異の裏の顔は「脅威」であること、

心して出向くことは大事なことだとおもいます。




酔ってる最中の告白

2014-09-29 | Weblog


世の中には「知りたいこと」知らなければいけないこと」

「知らなくて良いこと」「知らなくても良いこと」があります。

「知っても変わらないこと」の方が圧倒的に多いですが、

それでも「知りたい」世界はあります。


「知らなくて良いこと」って沢山ありますが、

「知らなくて良いこと」を知ってしまった時は

壊れた方位磁石のように心が定まりません

どう捉えていいのか?

どう捉えるべきなのか?

善悪の問題ではなく、道徳の問題でもなく、

在り方の問題でもなく・・・

どうすることもできない空間だけが漂っていて

とても不思議な気持ちです。


知らなかったことにする!!一番の対処法ですが、

知ってしまった心はそう簡単には順応しません。

私の持論は「良くない事は無かったことにする」ですが、

「冗談であってほしい」

という知った事への対処に少々動揺を隠しきれていません。

自分事ならば何とでも解決する道は探せますが、

自分事意外になると・・・

は~~~ 難しいです。


1年に一回有るか無いかの酔いの中で聞いた告白は、

一気に酔いが冷めた瞬間でした。





午後から

2014-09-26 | Weblog


本日でさとるの試験が終了。

就職する生徒が多い学校なので、

9月中に成績を出すため他の学校よりは

早くテストが始まる。

そういえば、テスト勉強してたっけ?

ま!なるようにしかなりませんので、

今さら驚きませんが・・・


私は夕方から高校役員研修会。

地元は大洗ホテルでの研修と懇親会。

去年からの試みで、それまでは

バスをチャーターして都心方面に出向いていましたが、

あまり参加率が悪いのと親睦があまり図れない

そういう意見が多数あり、それならば

学校の所在地である大洗の地で開催すれば

移動の経費などを親睦会などに充てられたり、

地元ということで参加者もふえるという利点が・・・

今年は支部会も合同開催になるので賑やかです。

私は研修委員長なのであいさつと防災観点での話10分、

そして懇親会の司会と大忙し・・・

とにかく楽しい時間にしたいです

【粋】な生き方を探る

2014-09-25 | 出来事



何とか台風の影響も受けずに

    お彼岸のお中日の法要を勤めることができました。



最近は寺との関わり、墓の在り方、参り方、

そして弔う心までも一連のメディアに支配され、

自身が考える以前に「時代の流れ」という括りだけで

これまでの思いや歴史まで

ちょっと???な方向へ進めようとしている

そんな感じがしてなりません。


寺の営みについて20年も前から言われています。(その前から)

私もまだ若輩者であった頃(今でもバカ者 もとい 若者ですが)

研修を通して年齢や宗派関係なく夜通し論議したものです。


寺の行く末や葬儀・墓の在り方を憂いているばかりではなく、

守られる者、守る者 双方の思いを一つにして、

命の原点に立ち返ることが大切であるとおもっています。


最近は無人島を樹木葬の場所にする、海に散骨する、

夫婦や家族と一緒ではなく、

趣味が同じで気があった人とだったり、

一人が気楽と合同供養墓を希望する人がいたり、

一人身や継承する人が絶えるということで

永代供養墓を考える人も・・・

致し方ない。そういう方も少なくありません。


弔う形に正解はありません。


人生の最後は生活、思考、最終的には法律にのっとって、

人の数だけあります。

従来の考え方や生き方と同じようにいかない世の中で、

どうするべきなのか。

改めてじっくり考える時代になっている気がします。


しかし、こんな話を耳にしました。(立ち聞きではありませんよ

ある日孫と一緒に墓参りにきた方が、

「年金暮らしで生活も苦しいし、

葬儀なんかにお金をかけさせるのは申し訳ない、

とにかく死ぬときも、死んだ後も迷惑をかけたくない」

そう茶飲み話をしていました。

そして、

「お墓を維持するのも大変だから、

海や木に散骨してもらうっていうことも有りだな~」

そんな話も笑いながら皆としていました。


ひとしきりそんな話がつづき会話が途切れた時、

一緒に来ていた孫が、

「もし、おじいちゃんやおばあちゃんが海に蒔かれたら、

どこの海に行けばいいの?

おじいちゃんの骨を飲み込んだかもしれない魚が居るかもしれないから

もう魚は食べられなくなる。」

「・・・」

「じゃ 木にしよう」

「周りの木は平気なのにおじいちゃんところだけ枯れちゃったら?」

「・・・」



まだ低学年くらいのお子さんでしたが、一理あります。

おくられるひとの思いも大事ですが、

おくるひとの気持ちも無下にはできません。


【自然に還る】たしかに戦国時代など、歴史の中では

葬儀を出す、墓を作る、守る。

決まった形がなかった時がありました。

だから弔いを無かったことにしてもいいのか?

弔う気持ちがあれば無くなった場所から直ぐに火葬にして、

人知れず納骨することがいいのか?

本人の遺言で内々だけで、と親戚や兄弟に声をかけなくていいのか?

(普段は余り話をしなくても、

こういう時だけ遺言を盾に意見を通そうとしますが。。。)

究極の論議です。

現在の形式に疑問がないわけでもありません。

確かに必要以上にかかる経費、寺への布施、

どこを取っても自分の身になるものではありません。

亡き方への供養 ただその一念であるのではないでしょうか。

中には世間体、親族の手前などと考えている人もいるかしれませんが、

それでも縁あって同じ時間を過ごした者への敬いが、

葬儀という形になっていてほしいと願います。

寺を守る者としての意見もあるのですが、

その思いが相手に伝わっていないことが問題で、

伝えようとしていない独りよがりなところが、

寺側にもあるようにおもいます。


今はシビアな時代。

家族という集団から個々の集まりという形態に変わりつつあり、

気がつけば物言わぬ(時々音声を発しますが)

何事も筒抜けで、四角い小さな物と過ごすだけの日々、

機械を通じて繋がる。意味を知りたいです。

同じ場所にいても同じ時間を共有していない人びと。

何を持って社会というのでしょうか。。。

本当に難しい。(確かに便利ではありますが)


何事も人とひととが出会い、話、理解する・・・

その心配りが生きてる証。

死ぬまでのこと、死んだ先のことを心配することは大事ですが、

その前に意見の相違があっても相手を攻撃することなく、

揚げ足を取ることなく、黙り込むことなく、

言い過ぎたら「ごめんなさい」

良くも悪くも会話、対話を楽しむこと。

究極の人生の楽しみ方を知らずにいる人は沢山います。


「粋」な生き方を忘れた今、

所作を見直す好い機会かもしれません。



お彼岸を迎えてこんなことをおもいました。