札幌 2020
読書は教養の土台だが、
教養は大局観の土台である。
藤原正彦『祖国とは国語』
NHK朝ドラ『エール』
再び「前代未聞の幕開け」を読み解く
NHK朝ドラ『エール』の第1話は、あらゆる予想や想像を完全に裏切っていました。前回に続いて、朝ドラ『エール』前代未聞の幕開けを読み解いてみたいと思います。
紀元前1万年の原始時代から始まった、驚きの第1話。
その怒涛の3分間が終り、書斎で仕事をしている初老の男(窪田正孝)がいます。昭和39年の東京オリンピック、その開会式で使われる入場行進曲を作曲しているのです。
考え込んでいた男の耳に、庭掃除をしている妻(二階堂)の歌声が響いてきました。『さくらさくら』です。ふと、何かがひらめいた男は、再び五線紙に向かいます。
男は、書き上げた楽譜の表紙に、「古山裕一」とサインしました。曲のタイトルは「オリンピック・マーチ」。聞いたことのある人も多い、あの曲です。
まさしく古関裕而が作曲したものであり、後述しますが、登場するのが「実在の曲」であることは大事なポイントになります。
次の場面は、東京オリンピック開会式の当日、昭和39年10月10日。
このブロックの見せ方は実に巧みです。いわば、同時進行の多元中継。
まず、福島にある、古山裕一の母校である小学校。生徒と先生たちが開会式を白黒テレビで観ようとしている。
また、とある墓地では、一人の男(中村蒼)が「藤堂家之墓」と彫られた墓石の前で、ラジオを聴いている。そして「あの裕一が、いじめられっ子の裕一が、ついにやりましたよ、先生」と語りかけます。
画面はこの後、開会式当日のニュース系・記録系のフィルム映像になる。国立競技場の上空を飛ぶ、航空自衛隊のブルーインパルス。ご臨席の昭和天皇・皇后ご夫妻。観客席を埋める大観衆などです。
競技場内のトイレで、うろうろしているのは裕一です。本番前の緊張感に押しつぶされそうなのは、ある男から、かなりプレッシャーをかけられていたからでした。
応接室で、黒ぶちメガネの男が力説しています。回想です。
「(日本が)復興を遂げた姿を、どーだ! と世界に宣言する。先生は、その大事な開会式の音楽を書くわけですから、責任重大ですぞ!」
この大声の、パワフルな、なんだかエラソーなメガネ男、どう見ても、昨年の大河ドラマ『いだてん』で阿部サダヲさんが演じていた、田畑政治その人でしょう。
古関裕而に、開会式の入場行進曲を「発注」したのは、あの田畑だったんですね。完全に、『いだてん』つながりです。
トイレで吐く裕一。駆けつけたのは妻の金子(きんこ)、じゃなくて音(二階堂ふみ)です。「大丈夫、あなたの曲は素晴しいんだから」と励まして、連れ出しました。
音は「あなたの曲を世界中の人が聴くのよ。ずっと叶えたかった夢でしょ?」と説得を続けます。それでも裕一は、会場に入る勇気が出ません。
その時、白い制服を着た、一人の警備員(萩原聖人)が現れました。裕一に向って、語りかけます。
「自分は長崎の出身であります。(原爆で)親兄弟、親戚、みんな死んだとです。生きる希望ば与えてくれたとは、先生の『長崎の鐘』です。先生の曲は人の心ば励まし、応援してくれます。先生の晴れ舞台ですけえ、どうか会場で」
音楽で、人を励まし、応援する。まさに「エール」。
これを聞いた裕一、ようやく会場に入ることを決意します。ここで、『長崎の鐘』というタイトル、固有名詞が出たことに注目です。ご存知のように、『長崎の鐘』は古関裕而の代表曲の一つです。
「ドラマなので、主人公は古山裕一という架空の人物だけど、本当は紛れもなく古関裕而なんですよ」と制作陣が宣言しているわけです。「たとえドラマでも古関裕而でいいじゃん」と言いたくなりますが(笑)。
裕一と音。2人は手をつないで、晴天の国立競技場の中へと足を運んでいきます。素敵な後ろ姿。大観衆の歓声が聞こえてきました。
さあ、ここで津田健次郎さんのナレーションです。
「この夫婦が、いかにして、このような2人になったのか。そこには長い長い話がありました」
確かに。これから半年の長丁場であり、ようやく、物語が始まるのです。
画面は一転。呉服屋の店先です。
ナレーション「すべては、福島の老舗呉服屋さんから始まりました」
テロップが「明治四十二年八月」。
浴衣姿の男(唐沢寿明)が店から飛び出してきました。「うおー! 生まれた、生まれた―!」
家の中では、妻(菊池桃子)が赤ちゃんを抱いています。
再び、ナレーション
「音楽が奏でる人生の物語『エール』、はじまり、はじまり!」
ここまで見せて、オープニングタイトル。
窪田さん、二階堂さん、2人のイメージ映像が美しい。GReeeeNによる主題歌「星影のエール」も心地いいじゃないですか。
ということで、第1話の15分が、無事終りました。
全体としてのポイントは、このドラマが、古関裕而をモデルにした「古山裕一という架空の人物」の物語ではなく、モデルと表現してはいるものの、明らかに「作曲家・古関裕而」と妻・金子の人生を描く作品であることを表明した、ということでしょう。
たとえば『スカーレット』は、陶芸家・神山清子をモチーフにした、「川原喜美子という架空の女性」のお話でした。
喜美子=神山ではない。だから、夫との離婚問題も、骨髄バンクをめぐるエピソードも、隔靴掻痒というか、曖昧なままというか、中途半端な形で進行していました。
モチーフとした人物が、ご健在ということもあり、かなりの配慮、もしくは忖度が効きすぎて、全体として不自由感がぬぐえませんでした。朝ドラとしては悪くない1本だっただけに、少々残念です。
実在の人物がモデルであるとしながらも、その人の実人生そのものをドラマで描くわけではない。「あくまでも架空の人物ですよ」というスタンスは、おそらく『エール』も同様のはずです。
そうでないと、「事実に基づいたフィクション」として、登場人物たちの人生をふくらませたり、出来事をプラスしたりして、ドラマ的面白さを追求することが出来ませんから。
ただし、繰り返しますが、実在の『オリンピック・マーチ』や『長崎の鐘』を提示したことで、「古山裕一夫妻の物語」を、古関裕而夫妻へのリスペクトを込めて描こうとする姿勢が、見る側にしっかりと伝わってきました。
これが、怒涛の3分間を含む第1話、「前代未聞の幕開け」の意味であり、成果だったのです。
その後、第1週では、福島の老舗呉服屋に生まれ育った裕一(石田星空)が、小学校の藤堂先生(森山直太朗)の影響もあって音楽に目覚めていく様子が描かれました。
両親(唐沢・菊池)はもちろん、裕一の人生に大きく関わる少年たちのキャラクターもしっかりと印象づけ、やがて裕一の妻となる少女・関内音(清水香帆)まで登場させていたのは見事です。
そして第2週。今度は、音とその家族の物語でした。
お父さん(光石研)の何でも包み込んでくれる「やさしさ」、お母さん(薬師丸ひろ子)の何ものにもめげない「おおらかさ」が印象に残ります。
1週、2週と、まるで2本のドラマを見たような満足感がありました。この勢いのまま、第3週以降では、成長した裕一(窪田)や音(二階堂)に会えそうです。まずは、いずれやってくる2人の出会い、いや「再会」が楽しみですね。
おそらく元々の予定では、今年7月に行われるはずだった、東京オリンピックを踏まえての「エール」というタイトルであり、内容だったはずです。
期せずして、新型コロナウイルスの渦中にあるニッポンへの、そこに暮す私たちへの、励ましであり、応援である「エール」となりましたが、制作陣の皆さんには、初回で見せてくれた「茶目っ気」と「ヤマっ気」を、今後もどんどん発揮していただけたらと思っています。
NHK朝ドラ『エール』
前代未聞の幕開けを読み解く
連続ドラマの第1話。制作陣にとって、それは一種の「闘争宣言」みたいなものです。
自分たちがこれからお見せするのは、一体どんなドラマなのか。どんな人物たちが、どんんな物語を展開するのか。それを視聴者の前に提示するわけです。
まずは第1話で、見る側に興味を持ってもらえないようでは辛い。先行きは暗いと言わざるを得ません。どんな連ドラの初回も、かなり力の入ったものになります。
とはいえ、NHK朝ドラです。パターンはそう多くありません。いわゆる編年体という形で主人公が生まれるところから始めたり、逆に現在の主人公の姿を先に見せてから、一気に過去へ、つまり時代をさかのぼってみたりします。
しかし、『エール』の初回は、あらゆる予想や想像を、完全に裏切ってくれました。
前代未聞の幕開け
放送開始と同時に、画面にはいきなり「紀元前1万年」の文字。
「え、紀元前1万年って何?」と思う間もなく、男が現れる。原始人らしい。でも、窪田正孝さんだけど。
男は川で魚を採ろうとするが、上手くいかない。そこに、同じく原始人の女がやってくる。もちろん二階堂ふみさんです。葉っぱのようなものを男に食べさせ、労をねぎらう。
ここでまた画面に文字。
「古来 音楽は人とともにあった」
続けて、
「以来 人は音楽を愛した」
すると突然、背後の火山が噴火します。吹き飛ばされた噴石があたりを襲う。
またも文字。
「ずっと音楽は人のそばにある」
川にも大きな噴石が落ちてきて、水しぶきが上がる。魚が宙を舞い、2人の足元に。
思わぬ収穫を喜ぶ2人。女は流木をドラムのように叩く。男は踊り出し、つい手にしていた魚を放り投げてしまう。魚は川へと戻ります。
西部劇、テニス、吉田拓郎・・・
画面が変わって、今度は西部劇風だ。棺の中に亡くなった妻(二階堂)。カウボーイハットの夫(窪田)が悲しみをこらえている。
初めてナレーションが入ります。
「ときに音楽は、人の悲しみに寄り添ってくれます」
おお、このナレーション、なかなかいい声です。でも、「津田健次郎」って誰? と思った人も多いでしょう。『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』、『妖怪ウオッチ!』、『テニスの王子様』などのアニメで知られる、実力派の声優さんです。
そして次の場面は、テニスコート。試合中らしい。女子選手(二階堂)がベンチで息を整えている。耳にはイヤホン。音楽で集中しようとしているのだ。
そこにナレーション。
「ときに音楽は、折れかけた心に力を与えてくれます」
うーん、確かに。
さらに画面が変わって、1970年代っぽい四畳半の部屋で、青年(窪田)が、カノジョ(二階堂)との2ショットの写真を焼いている。どうやら失恋したらしい。
流れている曲は、「ガラス窓にいっぱい並んだ雨だれの・・・」という歌詞。吉田拓郎さんの『ある雨の情景』です。懐かしい。
ナレーションは、
「ときに音楽は、現実逃避の手助けをしてくれます」
その通りです。
そして、またまた新たな場面。現代です。街をゆく若いカップル(窪田・二階堂)。2人はデート中です。
ナレーションが、
「ときに音楽は、人生を賭けた一大事に、力強い武器となってくれます」
武器ときたか。
いきなり青年が躍り出す。道行く人たちも、それに加わって群舞となります。って、『ラ・ラ・ランド』か(笑)。
ここで、久しぶりの文字表示。
「いろいろやってますが、音楽はすばらしい」
さらに、
「音楽が奏でる人生の物語です」
つまり、この朝ドラのことですよね。
青年は持参した指輪を取り出し、女性にプロポーズ。本人は「決まった!」という表情ですが、彼女の返事は・・・
「わたし、カレシいるんだけど。言わなかったっけ? ごめん、これからも、いいお友達で、ね」
ジャンジャン!
怒涛の3分間の意味
というわけで、約1万2000年という長い年月を背景とした、壮大な「オムニバス的ミュージカル風コント」でした。
確かに「いろいろやって」いましたが、ここまでに要した時間は、なんと3分! たったの3分間でも、これだけのことが出来るんですね。
では、制作陣がこの3分間で描こうとしたこと、伝えようとしたことは何か。
一つ、音楽はずっと昔から人間とつながっている。二つ、音楽は素晴らしいものである。そして三つ、これからお見せするのは、そんな「人と音楽をめぐる物語」である。以上。
基本的には「人と音楽の関係」を語っているのであり、一般論です。しかし、上記のことを大がかりな仕掛けで「宣言」する必要があった。
つまり、昭和39年の東京オリンピックの入場行進曲を作った古関裕而と、その妻・金子(きんこ)をモデルとした朝ドラを作るのは、今年の夏に行われるはずだった、令和の東京オリンピックに合わせたものではない。
また昨年の『いだてん』とも無関係で、あくまでも独立した「人と音楽をめぐる物語」であることを標榜したかったのでしょう。
それは、この後の初回の展開を見ると、よくわかります。話は昭和39年10月10日、東京オリンピック開会式当日の国立競技場へと飛ぶのです。
もしも、あの3分間のミュージカルショーがなかったとしたら、『いだてん』との連続性も含め、いきなり直球の「五輪物件」であるからです。ミュージカルショーは一種の緩衝材だったわけです。
いや、「五輪物件」だからどうだ、と言うのではありません。肝心なのは、面白いドラマかどうかですから。
そして、この朝ドラ、立ち上がりの2週間を見てきましたが、かなり期待できそうなのです。
(この項、続く)
毎日放送は9日、同社役員の岡田公伸(きみのぶ)さん(60)が新型コロナウイルスに感染し、死去したと発表した。岡田さんは制作局、アナウンサー室などの担当。肺炎の症状があり、入院していた。同社によると、3月26日にせき、27日には微熱があり自宅で休養。その後出社したが再び発熱。今月4日、兵庫県西宮市内の病院でPCR検査を受け、7日に陽性と判明したばかりだった。
(朝日新聞デジタル 2020.04.09)
かつて
一緒に番組作りをした、
岡田公伸さんの
訃報が伝えられました。
新型コロナウイルスで
知人が
亡くなるとは。
驚きだけでなく
無念です。
『敏感!エコノクエスト』
『ご存知!平成一番人気』
などの番組を立ち上げる
準備段階から、
私たちのオフィスに
ほとんど通勤し、
同じプロジェクトの
仲間として
奮闘してくれた岡田さん。
ユーモアがあって、
やさしくて、
仕事ができた岡田さん。
笑い声も
忘れません。
ありがとうございました。
合掌。
初回の飛び道具に驚き
NHK朝ドラ「エール」制作陣の茶目っ気
新しい朝ドラ「エール」が始まった。モデルは作曲家の古関裕而・金子(きんこ)夫妻。世の中がコロナウイルス禍で沈んでいることもあり、明るい気持ちで見られる作品であってほしいと思うが、どうやら大丈夫そうだ。
注目の第1話で制作陣は「飛び道具」を用意していた。いきなりの紀元前1万年。原始人の男(窪田正孝)と女(二階堂ふみ)が出現する。魚を手に入れた女は喜んで流木をドラムのように叩き、男は踊りだすのだ。
そのあとも試合前に音楽を聴いて集中するテニス選手(二階堂)、失恋の痛みをフォークソングで癒やす若者(窪田)といったコント風の映像が続く。
大昔から音楽が人を励ましてきたことを伝えたかったらしい。まさにエール(声援)だ。この初回では、モデルの古関裕而が作曲した入場行進曲が流れる、昭和39年の東京オリンピック開会式当日のエピソードまで見せてくれた。
そして第1週。福島の老舗呉服屋に生まれ育った裕一(石田星空)が、小学校の先生(森山直太朗)の影響もあって音楽に目覚める。
両親(唐沢寿明・菊池桃子)はもちろん、裕一の人生に大きく関わる少年たちのキャラクターもしっかりと描き、やがて裕一の妻となる少女・音(清水香帆)まで登場させていた。
第1話で発揮されたちゃめっ気とヤマっ気。第1週のテンポと明るさ。今後の展開も期待大だ。
(日刊ゲンダイ「TV見るべきものは!」2020.04.08)
ウーバージャパン「ウーバーイーツ」
自分らしさ譲らぬ「徹子」真骨頂
日本でテレビ放送が始まったのは1953年。その当時から黒柳徹子さんはテレビの中にいた。
初めて画面で見たのは小学1年生だった61年だ。ドラマ「若い季節」(NHK)、音楽バラエティー「夢で逢いましょう」(同)などの人気番組を掛け持ちしていた。
そして60年後の現在も「徹子の部屋」(テレビ朝日系)を続けている。驚異的なことだ。
そんな黒柳さんが小松菜奈さんと部屋にいる。並んでいるのは黒柳さんが我が子のように可愛がっている盆栽たちだ。
「あなた、お好きなの選んでいいわよ」と言われた菜奈さんが一つを指さす。
すると黒柳さん、すっと真顔になって「それね、私が一番好きな子なの」。
このひと言が黒柳さんらしくて笑ってしまう。思ったことはハッキリと言う。忖度なしで白は白、黒は黒。パンダの配色と同じくらい明快だ。
「自分の価値観で生きる」というメッセージが最も似合う人、それが「黒柳徹子」なのだ。
(日経MJ「CM裏表」2020.04.06)
実相寺昭雄監督所蔵
節目って
大事なことなの。
だらだらしてないで、
ピリオドを打っていかないと
いけないんだよ。
細野晴臣『とまっていた時計がまたうごきはじめた』
“ブルドッグと猪狩り”だった
日本製商業アニメの第一号
『にっぽんアニメ創生記』
渡辺泰、松本夏樹、フレデリック・S・リッテン、中川譲
集英社 2860円
愛読している雑誌の一つに『芸術新潮』がある。過去、一番驚いたのは2017年9月号の表紙だ。テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する、エヴァ初号機だったのだ。「芸新がアニメを特集する時代なんだなあ」と嬉しく思ったことを覚えている。
特に批評家30人が選んだ「日本アニメ ベスト10」が興味深かった。ちなみにトップ3は、『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦士ガンダム』『宇宙戦艦ヤマト』だ。
そもそも、なぜこの特集が組まれたのか。それは国産アニメの劇場公開から100年の節目だったからだ。では、1917年に誕生した「日本製商業アニメーション映画」の第1号とは何なのか。また創ったのは誰で、どんな内容だったのか。本書はそうした問いに答えるべく、国産アニメの「起源」を探っている。
その作品のタイトルは『凸坊新畫帖(でこぼうしんがちょう) 芋助猪狩(いもすけししがり)の巻』で、制作者は下川凹天(「へこてん」もしくは「おうてん」)。
ただしフィルムの断片もスチール写真も残っていない。原作と思われる6コマ漫画では、主人公である芋川椋三が、ブルドッグを連れて猪狩りに行く。椋三は獲物をシシ鍋にして食べ、ケガをした犬には骨1本を与える。当然、犬は椋三に愛想をつかして、といった内容だ。
本書には3人の執筆者の論考が独立して並んでいる。アニメーション研究家の渡辺は、前述の下川をはじめとする3人のパイオニアの軌跡をたどる。
映像文化史研究家の松本は、現存する最古のアニメフィルム『なまくら刀』の発見とその意味について考察。そして近・現代史研究家のリッテンは日本のアニメ創生期を細かく分析し、下川たちの取り組みに対して冷静な評価を与えていく。全体として、日本のアニメの起源を複眼的に捉える構成となった。
物事の「始まり」を検証することで、「現在」の認識や、「これから」の展望がより豊かなものになるはずだ。本書の価値もそこにある。
(週刊新潮 2020年4月2日号)
実相寺昭雄監督所蔵
「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己(じこ)」
たったいま、
その瞬間に、
その場所、
場面で、
自分がやるべきこと、
できることを、
精いっぱいやっていく。
枡野俊明 『定命(じょうみょう)を生きる』
<碓井広義の放送時評>
完結した「やすらぎの刻~道」
見る側に残る数々の台詞
倉本聰の脚本による「やすらぎの刻~道」(テレビ朝日-HTB)が幕を閉じた。昨年4月から1年間、平日に毎日放送されてきた一種の大河ドラマだ。しかも2017年の「やすらぎの郷」の続編である「やすらぎ」パートと、昭和から令和までを貫く「道」パートの二重構造という意欲作だった。
番組ホームページによれば、総出演者は402名。エキストラ総数が1235名。発注された弁当は約1万4千個だという。前代未聞のスケールだ。
このドラマには、戦争、老い、そして死など、他の連続ドラマではあまり描かれないテーマがいくつも投入されていた。まさに「倉本ドラマ」ならではだ。倉本聰が生まれたのは1935年(昭和10年)。翌年二・二六事件が起こり、その1年後には日中戦争が始まる。
敗戦時に10歳だった倉本は、戦地には行っていない。しかし、「銃後」の「少国民」として見聞きしたことや、「学童疎開」などの体験の全てが、倉本の中で脈々と生き続けている。それらは登場人物たちが語る言葉、つまりドラマの中の台詞(せりふ)を通して見る側へと届けられた。
たとえば、根来鉄兵(平山浩行)はこんなことを言っていた。「殺したら祈れ。謝罪でも感謝でも良い、神様に祈れ。けものを殺す時、わしゃいつもそうしとる。(中略)戦争は殺しても相手を喰わん。喰わんのに殺す。そんなことわしゃできん! だからわしゃ戦争ちゅうもンを--好かん!」
また公一(佐藤祐基)も憤っていた。「戦争はいやだな。戦争はけんかじゃ。それも、何の恨みもない、--逢ったこともない相手とのな。(中略)戦争ちゅうのはそういうもンだ。殺す理由などないものを--敵だというだけで、--国が違うというだけで、--只わけもなく殺し合うンじゃ」
そして現在の社会を見つめる老脚本家、菊村栄(石坂浩二)の感慨。「私は大声で叫びたくなっていた。君らはその時代を知っているのか! 君らのおじいさんやおやじさんたちが、苦労して瓦礫(がれき)を取り除き、汗や涙を散々流して、ようやくここまでにした渋谷の路上を、なんにも知らずに君らは歩いてる! えらそうにスマホをいじりながらわが物顔で歩いてる! ふざけるンじゃない!」
いずれも、本来は役者が口にすると同時に消えてしまうはずの言葉だ。しかし倉本が台詞に込めた思いは、言霊(ことだま)となって私たちの中に残っていく。「やすらぎ」シリーズとは、そういう貴重なドラマ体験だった。
(北海道新聞「碓井広義の放送時評」2020.04.04)
「麒麟がくる」
“染谷将太の織田信長”に賛否
敢えて違和感を狙った起用のワケ
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役といえば、明智光秀役の長谷川博己(43)だ。しかし、最近は織田信長役の染谷将太(27)に大きな注目が集まっている。そのナゾを解くキーワードは“違和感”のようだ。
“染谷信長”に、かなりの視聴者が戸惑っているようだ。日刊ゲンダイDIGITALは3月15日、「染谷将太演じる『麒麟がくる』織田信長 “丸顔 童顔系”の謎」との記事を掲載した。
染谷の顔立ちだけでも、視聴者が違和感を覚えたことが分かる。そして現在では、「我慢して見ていたけど、やっぱり駄目だ」とギブアップした層と、「最初は違和感があったけど、段々と癖になってきた」と考えを改めた層に分かれているようだ。
印南敦史さんが書かれた、『倉本聰の言葉 ドラマの中の名言』(新潮新書)の書評が、「サライ.jp」に掲載されました。
印南さん、ありがとうございます。
時代を超えて大きな説得力を持つ
「倉本聰の言葉 ドラマの中の名言」
文/印南敦史
メディア文化評論家である『倉本聰の言葉 ドラマの中の名言』(碓井広義 編、新潮新書)の編者は本書の冒頭で、ドラマの「脚本」を形づくる3つの構成要素について触れている。
「柱」「ト書き」そして「台詞」のことである。
まず柱は、「時間」や場所を想定したもの。たとえば、「シーン6 上智大学7号館入り口(朝)」などと書くわけだ。
ト書きは、登場人物の動きや置かれている状況を説明するためにあるもの。なお、その変わった呼称は、『「おはよう」と言いながら花子に駆け寄る太郎』の「と」からきている。「おはよう」までが台詞で、「と」以下がト書きだということ。
そして台詞については、説明するまでもないだろう。劇中の人物が口にする、すべての言葉のことだ。
小説であれば、登場人物の性格や心理など、あらゆることを自由に書くことができる。しかし、脚本は話が別だ。あくまでもルールに則り、柱とト書きと台詞だけで表現しなくてはならないのだから。
そう考えると不自由にも思えるが、「制約があることで逆に自由」だという側面も持つ創作物なのだと著者は解説している。
言うまでもなく、三要素のなかで最も重要なのは、実際に物語を駆動させていく台詞だ。なぜなら台詞は、たったひとことであったとしても、物語の流れを変えたり飛躍させたり、場合によってはドラマ全体に幕を下ろしたりする力を備えているからだ。
台詞の中に、そんな「言葉の力」が凝縮されているのが、倉本聰の脚本だ。いわゆる「説明台詞(せつめいぜりふ)」など皆無であり、あらゆる台詞に背景がある。言葉の奥に、それを語る当人の見えざる過去があり、進行形の現在がある。その場面、その瞬間、その台詞を言わねばならない必然がある、しかも、架空の人物たちである彼らが語る言葉に、現実を生きる私たちをも揺さぶる、普遍的な真実が込められているのだ。(本書「はじめに」より引用)
本書ではそんな思いを軸に、倉本聰が60余年にわたって描いてきた膨大な数の脚本のなかから、時代を超えて大きな説得力を持つ言葉の数々を厳選したものである。異なった表現を用いるならば、「ドラマの名言集」とも言えるかもしれない。
これらは、ある物語の、ある場面で言われた台詞であるにもかかわらず、読む人それぞれが自由に受け取り、好きなように解釈し、自分の人生に生かしていくことが可能な言葉ばかりだ。それが倉本脚本であり、倉本ドラマなのである。(本書「はじめに」より引用)
たとえばその好例が、倉本聰の代表作のひとつである『前略おふくろ様』シリーズ(日本テレビ、1975~77年)だ。東京で板前修行中のサブ(萩原健一)が、故郷にいる母(田中絹代)に向かって語りかけるナレーションを憶えている方も多いことだろう。
父を早くに亡くした倉本にとって、母はずっと大切な存在だったという。このドラマのなかでもサブの言葉を通じ、「遠慮することなンてないじゃないですか。あなたの実の息子じゃないですか」と母を気遣っている。つまりはここに、自身の思いを投影していたのだろう。
そしてもうひとつ忘れるわけにいかないのが、20年以上も続いた「父と子」の物語である『北の国から』シリーズ(フジテレビ、1981~2002年)だ。
ちなみに、このドラマがスタートする数年前に、倉本が東京から北海道の富良野へと移住したことは有名だ。原生林のなかに家を建て、冬は零下20度という過酷な状況下で暮らしはじめたのである。
ドラマでは黒板五郎(田中邦衛)の苦労や息子の純(吉岡秀隆)の戸惑いなどが描かれているが、それは倉本自身の実体験をベースにしたものだったのである。
父への反発や反抗もあった純だが、やがて「父さん。あなたはーーすてきです」と胸の内で五郎に語りかけるようになる。サブも純も蛍(中嶋朋子)も、そしてサブの母も黒板五郎も、皆、倉本の分身なのだ。(本書70ページより引用)
たしかにそのとおりで、いま改めて台詞を目で追ってみても、さまざまな思いが蘇ってくることだろう。登場人物を介して発せられることばのひとつひとつに、多くの人が共有できる“なにか”が備わっているのだ。
今少し父さんがわかりはじめてきました。――今まで考えたこともなかったけど、あの頃父さんが耐えていた苦しみ、父さんの悲しみ、父さんの痛み、父さんの強さ、あの頃の父さんの男としてのすごさが、初めて今だんだんわかってきたわけで。89年『北の国から’89 帰郷』黒板純(吉岡秀隆)(本書72ページより引用)
たとえば、『北の国から』を代表する名言のひとつとして知られるこの言葉がそうであるように。
(サライ.jp 2020.04.01)