印南敦史さんが書かれた、『倉本聰の言葉 ドラマの中の名言』(新潮新書)の書評が、「サライ.jp」に掲載されました。
印南さん、ありがとうございます。
時代を超えて大きな説得力を持つ
「倉本聰の言葉 ドラマの中の名言」
文/印南敦史
メディア文化評論家である『倉本聰の言葉 ドラマの中の名言』(碓井広義 編、新潮新書)の編者は本書の冒頭で、ドラマの「脚本」を形づくる3つの構成要素について触れている。
「柱」「ト書き」そして「台詞」のことである。
まず柱は、「時間」や場所を想定したもの。たとえば、「シーン6 上智大学7号館入り口(朝)」などと書くわけだ。
ト書きは、登場人物の動きや置かれている状況を説明するためにあるもの。なお、その変わった呼称は、『「おはよう」と言いながら花子に駆け寄る太郎』の「と」からきている。「おはよう」までが台詞で、「と」以下がト書きだということ。
そして台詞については、説明するまでもないだろう。劇中の人物が口にする、すべての言葉のことだ。
小説であれば、登場人物の性格や心理など、あらゆることを自由に書くことができる。しかし、脚本は話が別だ。あくまでもルールに則り、柱とト書きと台詞だけで表現しなくてはならないのだから。
そう考えると不自由にも思えるが、「制約があることで逆に自由」だという側面も持つ創作物なのだと著者は解説している。
言うまでもなく、三要素のなかで最も重要なのは、実際に物語を駆動させていく台詞だ。なぜなら台詞は、たったひとことであったとしても、物語の流れを変えたり飛躍させたり、場合によってはドラマ全体に幕を下ろしたりする力を備えているからだ。
台詞の中に、そんな「言葉の力」が凝縮されているのが、倉本聰の脚本だ。いわゆる「説明台詞(せつめいぜりふ)」など皆無であり、あらゆる台詞に背景がある。言葉の奥に、それを語る当人の見えざる過去があり、進行形の現在がある。その場面、その瞬間、その台詞を言わねばならない必然がある、しかも、架空の人物たちである彼らが語る言葉に、現実を生きる私たちをも揺さぶる、普遍的な真実が込められているのだ。(本書「はじめに」より引用)
本書ではそんな思いを軸に、倉本聰が60余年にわたって描いてきた膨大な数の脚本のなかから、時代を超えて大きな説得力を持つ言葉の数々を厳選したものである。異なった表現を用いるならば、「ドラマの名言集」とも言えるかもしれない。
これらは、ある物語の、ある場面で言われた台詞であるにもかかわらず、読む人それぞれが自由に受け取り、好きなように解釈し、自分の人生に生かしていくことが可能な言葉ばかりだ。それが倉本脚本であり、倉本ドラマなのである。(本書「はじめに」より引用)
たとえばその好例が、倉本聰の代表作のひとつである『前略おふくろ様』シリーズ(日本テレビ、1975~77年)だ。東京で板前修行中のサブ(萩原健一)が、故郷にいる母(田中絹代)に向かって語りかけるナレーションを憶えている方も多いことだろう。
父を早くに亡くした倉本にとって、母はずっと大切な存在だったという。このドラマのなかでもサブの言葉を通じ、「遠慮することなンてないじゃないですか。あなたの実の息子じゃないですか」と母を気遣っている。つまりはここに、自身の思いを投影していたのだろう。
そしてもうひとつ忘れるわけにいかないのが、20年以上も続いた「父と子」の物語である『北の国から』シリーズ(フジテレビ、1981~2002年)だ。
ちなみに、このドラマがスタートする数年前に、倉本が東京から北海道の富良野へと移住したことは有名だ。原生林のなかに家を建て、冬は零下20度という過酷な状況下で暮らしはじめたのである。
ドラマでは黒板五郎(田中邦衛)の苦労や息子の純(吉岡秀隆)の戸惑いなどが描かれているが、それは倉本自身の実体験をベースにしたものだったのである。
父への反発や反抗もあった純だが、やがて「父さん。あなたはーーすてきです」と胸の内で五郎に語りかけるようになる。サブも純も蛍(中嶋朋子)も、そしてサブの母も黒板五郎も、皆、倉本の分身なのだ。(本書70ページより引用)
たしかにそのとおりで、いま改めて台詞を目で追ってみても、さまざまな思いが蘇ってくることだろう。登場人物を介して発せられることばのひとつひとつに、多くの人が共有できる“なにか”が備わっているのだ。
今少し父さんがわかりはじめてきました。――今まで考えたこともなかったけど、あの頃父さんが耐えていた苦しみ、父さんの悲しみ、父さんの痛み、父さんの強さ、あの頃の父さんの男としてのすごさが、初めて今だんだんわかってきたわけで。89年『北の国から’89 帰郷』黒板純(吉岡秀隆)(本書72ページより引用)
たとえば、『北の国から』を代表する名言のひとつとして知られるこの言葉がそうであるように。
(サライ.jp 2020.04.01)